「大老」(たいろう)とは、もともと戦国大名の家中における、最高権力者を意味しました。豊臣政権の末期に、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの政治を担った5人の大老、「五大老」(ごたいろう)がよく知られています。江戸幕府では、江戸幕府将軍に次ぐ最高権力者は「老中」(ろうじゅう)でしたが、幕政に重要な問題が起きたとき、臨時に老中の上に置かれたのが大老でした。通説では1638年(寛永15年)に、「土井利勝」(どいとしかつ)、「酒井忠勝」(さかいただかつ)が任命されたのが最初の大老だと言われます。そして1868年(元治2年/慶応元年)の「酒井忠績」(さかいただしげ)まで、230年間に延べ14名が就任しました。
江戸幕府における大老とは、江戸幕府に重大な問題が起きたとき、江戸幕府将軍を補佐し、重要な政策決定に関与する臨時職です。
定員は通常1名で、「評定所」(ひょうじょうしょ:訴訟を扱う他、政策の立案・審議を行う機関)への出勤といった日常業務は免除され、老中のような月番(つきばん:月ごとに代わること)もありませんでした。
官位(かんい:朝廷から授かる位)は、「四位少将」(しいのしょうしょう)、あるいは「三位中将」(さんみのちゅうじょう)で、老中の「従四位下侍従」(じゅしいのげじじゅう)より高く、老中と共に歩く際は、大老は常に1~2歩先を歩き、江戸城(えどじょう:東京都千代田区)内において「総下座の礼」(そうげざのれい:その場にいるすべての人が平伏して敬意を表すること)を受けたとされます。
大老に就くことができる家柄は、「井伊」(いい)・「雅楽頭流酒井」(うたのかみりゅうさかい)・「土井」(どい)・「堀田」(ほった)の4家に限定。ただし、雅楽頭流酒井家は、本家と分家のどちらも大老に就いており、事実上は5家と数えることもできます。
また酒井家・土井家・堀田家は、老中を経てから大老へ就任しましたが、井伊家だけは老中にならずに大老に就任しました。これは、もともと井伊家の当主が少将に叙任される家柄であり、幕政にかかわると同時に大老となる資格(四位少将より上)を満たしていたためと考えられます。
また、例外として、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の時代に、上記4家ではない「柳沢吉保」(やなぎさわよしやす)が、大老に匹敵する職として「大老格」(たいろうかく)に任命された例もありました。
1638年(寛永15年)に、徳川家光は、江戸幕府の重鎮であった土井利勝と酒井忠勝に対して、「老中奉書」(ろうじゅうほうしょ:老中の会議による決定事項を伝える文書)に署名をしなくて良いとし、毎月1日と15日だけ江戸城に登城し、大事が起きたときのみ老中と合議するよう命じました。これが本格的な大老の始まりと言われます。
しかし、徳川家光がこの2人を優遇したように見えるのは、あくまでも父・徳川秀忠の側近として権力を持っていた土井利勝と、父が後見人と決めた酒井忠勝の2人を政治から遠ざけるためという説を唱える歴史学者も少なくありません。
徳川綱吉の時期に大老を務めた「堀田正俊」(ほったまさとし)は、1684年(貞享元年)、江戸城内で「若年寄」(わかどしより:老中を補佐した江戸幕府の重職)の「稲葉正休」(いなばまさやす)によって刺殺されてしまいます。
江戸幕府の公式な史書である「徳川実紀」によれば、これは稲葉正休が、堀田正俊の横暴な態度に意見し、腹を立てた堀田正俊が稲葉正休を陥れようと画策したことが原因。しかし稲葉正休も、その場に居合わせた老中「大久保忠朝」(おおくぼただとも)らによって、その場で斬り殺されているため事件の真相は分かっていません。
幕末の1858年(安政5年)、「徳川家定」(とくがわいえさだ)の時代、彦根藩(ひこねはん:現在の滋賀県彦根市)の藩主から大老へ就任したのが「井伊直弼」(いいなおすけ)。井伊直弼は、文字通り江戸幕府に重大な問題が起きた際の対処のため、就任した大老でした。
当時の日本は、アメリカによる開国要求、次期江戸幕府将軍継承問題、尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇家を中心に国民が一致団結し、外国勢力を排斥するという思想)派の台頭など、まさに内憂外患(ないゆうがいかん:国の内も外も悩みがあること)の真っただ中。
これに対し、井伊直弼は朝廷の許可を得ずに「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結し、次の江戸幕府将軍を「徳川家茂」(とくがわいえもち)に決め、反対勢力を「安政の大獄」(あんせいのたいごく)によって弾圧します。
こうした独断的な政策が強い反感を買い、1860年(万延元年)、江戸城の桜田門外において暗殺されてしまいました(桜田門外の変)。
江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の奥小姓(おくこしょう:江戸幕府将軍の雑務をこなす役職)を務めた「村山鎮」(むらやままもる)は、著書「大奥秘記」(おおおくひき)で、江戸幕府最後の大老を務めた、酒井忠績の江戸城内における様子を次のように伝えています。
大老職を務めた酒井忠績は以下のように日々を過ごしたとされます。
こうした記述から、江戸城において老中には上から、江戸幕府将軍には下から接した大老の日常が見えてきます。
江戸時代、大老の職に就いたのは以下14名です。
名前 | 年 |
---|---|
井伊直孝(いいなおたか) | 1632年~不明(寛永9年~) |
酒井忠世(さかいただよ) | 1636年(寛永13年) |
土井利勝(どいとしかつ) | 1638~1644年(寛永15年~正保元年) |
酒井忠勝(さかいただかつ) | 1638~1656年(寛永15年~明暦2年) |
酒井忠清(さかいただきよ) | 1666~1680年(寛文6年~延宝8年) |
井伊直澄(いいなおすみ) | 1668~1676年(寛文8年~延宝4年) |
堀田正俊(ほったまさとし) | 1681~1684年(天和元年~貞享元年) |
井伊直興(いいなおおき) | 1697~1700年(元禄10~13年) |
柳沢吉保(やなぎさわよしやす) 大老格 |
1706~1709年(宝永3~6年) |
井伊直該(いいなおもり) 井伊直興が改名 |
1711~1714年(宝永8年~正徳4年) |
井伊直幸(いいなおひで) | 1785~1787年(天明5~7年) |
井伊直亮(いいなおあき) | 1836~1841年(天保7~12年) |
井伊直弼(いいなおすけ) | 1858~1860年(安政5~7年) |
酒井忠績(さかいただしげ) | 1865年(元治2年/慶応元年) |