「大正デモクラシー」とは、大正時代に盛んになった民主主義を求める風潮、及び運動のことです。その基本理念となったのは、政治学者「吉野作造」(よしのさくぞう)が唱えた「民本主義」(みんぽんしゅぎ:天皇君主制による民主主義)。大正デモクラシーの大きな特徴は、デモクラシーを単なる民主主義と考えるのではなく、一般民衆の生活向上を第一に考えたこと。この基本理念のもと、「第1次護憲運動」から「普通選挙制」の成立までの時代思潮、社会運動のことを大正デモクラシーと呼ぶことが多く、具体的な内容としては市民的自由(言論、出版、集会の自由)の拡大、一般民衆の政治参加の要求とされています。
明治時代の後半、資本主義の発展に伴い、工場労働者が激増し、それとともに劣悪な労働問題が深刻化します。1897年(明治30年)に「高野房太郎」(たかのふさたろう)、「片山潜」(かたやません)らが「労働組合期成会」を結成。労働組合の考え方とともに「社会主義思想」も紹介されるようになります。
そして、片山潜らの指導で鉄工業、鉄道事業などで労働組合が作られ、「労働争議」(労働環境の改善を求めた活動)が起こるようになったことから、1900年(明治33年)、日本政府は労働者の団結を制限する「治安警察法」を公布。これにより、翌1901年(明治34年)に結成された、日本初の社会主義政党「社会民主党」は即時解散となりました。
しかし、そのあとも社会主義者は社会主義結社「平民社」が発行する「平民新聞」で、「日露戦争」への反戦運動をはじめとする活動を続けます。労働争議は、日露戦争後にさらに激しさを増し、1906年(明治39年)には社会主義政党「日本社会党」が結成されましたが、翌1907年(明治40年)に「幸徳秋水」(こうとくしゅうすい)らの直接行動派(過激派)と穏健派(議会政策派)が対立するなか、日本政府より解散を命じられました。
当時の日本政府は、第4次「伊藤博文」(いとうひろぶみ)内閣のあと、1901年(明治34年)に第1次「桂太郎」(かつらたろう)内閣が発足。1906年(明治39年)には、第1次「西園寺公望」(さいおんじきんもち)内閣へ引き継がれていました。以後、桂太郎と西園寺公望が交互に内閣を組織する、「桂園時代」(けいえんじだい)と呼ばれる時代が1913年(大正2年)まで続きます。
この桂園時代は、桂太郎が代表する藩閥(はんばつ:特定の藩出身者による権力の独占)勢力と、西園寺公望が代表する最大政党である「立憲政友会」(国益の優先、国家との一体感を目指す伊藤博文が結成した政党)とが互いに妥協案を繰り返すことによって政権を運営していました。そのため、政治的には安定した時代と言われていますが、社会に目を向けると日露戦争の遂行に費やした巨額の戦費や、日本の資本主義化に伴う矛盾などが表面化してきた時期でもあったのです。
1912年(明治45年)7月、122代「明治天皇」が崩御し、大正時代へと移ります。そして桂園時代最後の第3次桂太郎内閣は、藩閥勢力に対する民衆からの不満の高まりと、1913年(大正2年)の第1次護憲運動(民意による立憲政治を擁護した運動)の展開などにより、組閣(そかく:内閣を組織すること)からわずか50日ほどで退陣に追い込まれました(大正政変)。
このように、明治時代末期から大正時代初めにかけて、民衆が政府に対し直接不満の声を上げて行動し、政治に大きな影響を与えるようになります。そして、「政治は民の利益を目的とすべき」と主張する政治学者・吉野作造が登場し、英語のデモクラシーを民主主義ではなく「民本主義」と訳し、大正デモクラシーの機運が一気に高まっていったのです。
また、大正デモクラシーの背景として、1914~1918年(大正3~7年)の4年余りに及んだ「第1次世界大戦」があります。オーストリア、ドイツを中心とした同盟国とイギリス、フランス、ロシア帝国、アメリカなど連合国間で繰り広げられた大規模な戦争で、日本は「日英同盟」を理由に連合国側で参戦しました。
この第1次世界大戦は、1917年(大正6年)に連合国側として参戦したアメリカが、「デモクラシーのための戦争」と位置付けたことなどから、民主主義(デモクラシー)と専制主義(支配者層による独占政治、オートクラシー)の戦いとも考えられていました。
そしてそれらの影響は日本にも及び、「政党内閣制」(議会に議席を保持する政党によって組織される内閣制度)、身分・性別、財産・納税額などで制限されない普通選挙の実現を目指すデモクラシー運動と労働運動が高揚していったのです。
1916年(大正5年)、政治学者で「東京帝国大学」(現在の東京大学の前身)教授であった吉野作造が、民本主義を提唱。
これは、吉野作造が雑誌「中央公論」で発表した論文「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」であり、大正デモクラシーの基本理念となりました。
デモクラシーは、一般的には民主主義と訳されますが、吉野作造はデモクラシーの語義を主権在民(民主主義)と民生向上(一般民衆生活の向上)及び民本主義(天皇君主制による民主主義)に分け、そのうち民生向上と民本主義を「普通選挙と政党内閣制によって実現せよ」と説いたのです。
また、明治時代末期に、同じく東京帝国大学教授の「美濃部達吉」(みのべたつきち)が、中等教員(現在の高校教師)向けに話した講和禄(分かりやすく話した内容)を「憲法講話」として刊行。このなかで「天皇機関説」(天皇は法人たる国家の最高機関であり、主権者ではないとする憲法学説)、議院内閣制(議会に承認された内容によって政治を担う体制)を分かりやすい言葉で紹介したことで、新時代に対する国民の政治的関心が高まりました。
第3次桂太郎内閣が崩壊した大正政変から、5年後の1918年(大正7年)、「米騒動」に象徴される人々の不満爆発とメディアからの総理大臣批判によって、「寺内正毅」(てらうちまさたけ)内閣が総辞職。この米騒動も、大正デモクラシーを象徴する出来事でした。
1916~1918年(大正5~7年)の2年間で米価の相場はほぼ3倍になり、庶民生活を圧迫。富山県魚津町(現在の富山県魚津市)の女性達は、米が県外に運び出されるという噂を聞き、井戸端会議でそれを阻止することを決めます。この動きが他の町にも広がり新聞で報道されるようになると、全国で米騒動が展開されるようになりました。
またこの大正時代、ジャーナリズムも大正デモクラシーを大きく後押しします。急速に発展を遂げた総合雑誌のなかには、民本主義の論陣を張った「中央公論」の他、「大阪朝日新聞社」(現在の朝日新聞大阪本社)を退社した「長谷川如是閑」(はせがわにょぜかん)による雑誌「我等」(われら)、「大山郁夫」(おおやまいくお)らの社会主義的な論文も掲載した「山本実彦」(やまもとさねひこ)による雑誌「改造」が刊行。経済雑誌の「東洋経済新報」は、ジャーナリスト「石橋湛山」(いしばしたんざん)の「植民地放棄論」を載せ、日本の海外植民地獲得に警鐘を鳴らしました。
また、マルクス主義(階級のない協同社会を目指した思想)が日本の知識層に大きな影響を与えたことも、大正時代の大きな特徴。なかでも、1916年(大正5年)に大阪朝日新聞に掲載され、翌1917年(大正6年)に出版された「河上肇」(かわかみはじめ)の「貧乏物語」は、広範な読者を獲得しました。
そんななか、1918年(大正7年)に、初の平民(へいみん:旧農工商層)出身者による総理大臣が誕生します。
平民宰相と呼ばれた「原敬」(はらたかし)率いる内閣は、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣以外は立憲政友会会員の本格的な政党内閣であり、国民は歓迎し大いに期待しました。
原敬は、選挙資格の拡大、産業振興など積極的に政策を進めましたが、第1次世界大戦後の恐慌が日本を襲います。
政党間の争いも激しくなり、利権を巡る汚職事件も発生。労働者による社会運動に対しても厳しい態度で臨み、さらに活発になっていた普通選挙実施運動も時期尚早と一蹴します。これらにより、原敬の人気は凋落、最後は原敬政権に怒りを抱いた青年により暗殺されるという憂き目に遭うのでした。
そのあと立憲政友会総裁となった「高橋是清」(たかはしこれきよ)が総理大臣となるも、内閣内の不和で総辞職し、そののちは非政党内閣が続きました。大正デモクラシーの成果のひとつである普通選挙法は、衆議院の第1党である憲政会総裁「加藤高明」(かとうたかあき)が、「憲政会」、立憲政友会、「革新倶楽部」(犬養毅[いぬかいつよし]らによって結成された政党)の3党による連立内閣を組織した1925年(大正14年)に成立。
この普通選挙法は、満25歳以上の成人男性のみが、衆議院議員の選挙権を持つことになり、有権者の数は一気に従来の4倍に増えました。
歴史の教科書などでは、大正時代を象徴する単語として、「人格」、「民衆」、「改造」が挙げられています。大正時代の社会運動において、「人格承認」という言葉が繰り返し使われました。人格とは、今で言う人間性のことであり、人格承認には、「自らを一個の人間として認めてほしい」という願いが込められていたのです。
そのため、臣民(しんみん)あるいは、国民という単語ではなく、大正時代から「民衆」という単語が用いられるようになったのも、この人格承認の流れだとされます。さらに、民衆が認められるためには、明治時代につくられた国家、社会、家庭、道徳などはすべて「改造」されなければならないとされ、この改造という単語も大正時代を象徴するものでした。大正デモクラシーが育った背景には、これらの新しい単語の出現もあったのです。