大正時代の重要用語

大正天皇 
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123代「大正天皇」(たいしょうてんのう)は、1912~1926年(大正元年~15年)の短い期間に在位しました。122代「明治天皇」の第3皇子として生まれましたが、生誕時から病弱で、生後は髄膜炎を患うなどいくつかの大病にかかります。学校に上がる年齢になっても病気がちだったため個人授業を受け、8歳になって「学習院」予備科(現在の学習院初等科)へ入学。しかし、病弱で学校を休みがちとなり、心身の発達が遅れていることを理由に1894年(明治27年)に、学習院中等科(現在の学習院高等科)を1年で退学することになります。1900年(明治33年)に結婚、1912年(明治45年/大正元年)に皇子の中で唯一成人した男子であったため、天皇として即位しました。しかし、病弱な体質は晩年まで好転せず、1926年(大正15年)に崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)。日本が国力を強める激動の時代に生きた、大正天皇の生涯を紹介します。

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大化から令和までの天皇と元号についてご紹介します。

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123代「大正天皇」(たいしょうてんのう)は、1912~1926年(大正元年~15年)の短い期間に在位しました。122代「明治天皇」の第3皇子として生まれましたが、生誕時から病弱で、生後は髄膜炎を患うなどいくつかの大病にかかります。学校に上がる年齢になっても病気がちだったため個人授業を受け、8歳になって「学習院」予備科(現在の学習院初等科)へ入学。しかし、病弱で学校を休みがちとなり、心身の発達が遅れていることを理由に1894年(明治27年)に、学習院中等科(現在の学習院高等科)を1年で退学することになります。1900年(明治33年)に結婚、1912年(明治45年/大正元年)に皇子の中で唯一成人した男子であったため、天皇として即位しました。しかし、病弱な体質は晩年まで好転せず、1926年(大正15年)に崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)。日本が国力を強める激動の時代に生きた、大正天皇の生涯を紹介します。

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大正天皇の生涯

明治天皇の第3皇子として誕生

大正天皇

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大正天皇は、1879年(明治12年)8月31日に「青山御所」(東京都港区)で誕生。

母は女官(にょかん:官職を持ち宮廷に勤める女性)の「柳原愛子」(やなぎはらあいこ)で、「明宮嘉仁親王」(はるのみやよしひとしんのう)と命名されました。

「嘉」の字は詩経(しきょう:中国において最初に編纂された詩篇)の「敬爾威儀無不柔嘉」から取られ、治者の心得として自らの威儀を正して柔和で善良でいるべきとの意味を持ちます。

また、生誕時より虚弱体質でした。1879年(明治12年)12月になると、当時の皇室の伝統に従い里子へ出され、1885年(明治18年)に至るまで、122代・明治天皇の外祖父「中山忠能」(なかやまただやす)の邸宅で育てられることになります。

6歳のときに御所(天皇の住まい)へ戻りますが、依然病気がちのため就学はせず、御所内で個人授業を受けることに。のちに学習院予備科に入学したのは8歳のときでした。

1889年(明治22年)に皇太子になり、1893年(明治26年)には学習院中等科へ進学するものの、病弱なせいで劣等感が生まれると君主として悪影響になりかねないとする宮中の意見により、わずか1年で退学します。

その後は、全国各地の御用邸で静養を繰り返し、それまでの詰め込み教育から健康優先へと方針を転換し、徐々に回復していきました。

皇太子・明宮嘉仁親王の結婚

表慶館

表慶館

1891年(明治24年)頃から、早くも皇太子妃選びが始まります。当時、大正天皇(明宮嘉仁親王)は12歳でした。

1893年(明治26年)、一度は「伏見宮禎子女王」(ふしみのみやさちこじょおう)が、皇太子妃に内定しますが、「女王に肺病の疑いがある」との発言から白紙に。

その後、健康で性格も良いとの理由から1899年(明治32年)8月、華族の「九条節子」(くじょうさだこ:藤原摂関家九条家の出身)が皇太子妃に内定し、1900年(明治33年)5月に婚礼の儀式が行われました。

結婚を祝して様々な物が献納されましたが、現在「東京国立博物館」(東京都台東区)の敷地内にある「表慶館」(ひょうけいかん)もそのひとつです。

天皇即位から崩御まで

1912年(明治45年)、122代・明治天皇が崩御すると大正と改元され、123代・大正天皇として即位します。「即位礼」(そくいれい:天皇が皇位を継承したことを国内外に示す一連の国事行為)、「大嘗祭」(だいじょうさい:天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀)は、1914年(大正3年)に行われる予定でしたが、同年4月に明治天皇の后である「昭憲皇太后」(しょうけんこうたいごう)が崩御したため延期。

1915年(大正4年)に即位礼、大嘗祭が「京都御所」(京都府京都市)で執り行われ、「二条離宮」(二条城:京都府京都市)では、世界各国の王族、要人などを招き、饗宴の儀が盛大に開催されました。一連の儀式は内務大臣「原敬」(はらたかし)によって実行されましたが、大正天皇は儀式の簡素化と日程短縮を希望しており、盛大なものは望んでいなかったとされています。

病弱な大正天皇の政治的資質は、以前から不安視され、対応すべく総理大臣「西園寺公望」(さいおんじきんもち)、「山本権兵衛」(やまもとごんべえ)をはじめ閣僚達が奔走しました。

そんななか、大正天皇は1918年(大正7年)末から体調を崩し、静養を余儀なくされます。1920年(大正9年)には、宮内省(現在の宮内庁)が初めて大正天皇の「体調悪化」を一般に公表。すでに公務ができる状態ではなくなっていたため、1921年(大正10年)、大正天皇の第1皇子の「裕仁親王」(ひろひとしんのう:のちの124代・昭和天皇)が、摂政(せっしょう:天皇の補佐)へ就任しました。

その後も体調は回復することなく、1926年(大正15年)12月25日に、貞明皇后(九条節子)や、実母・柳原愛子、裕仁親王夫妻などに見守られて崩御。享年47でした。大喪(葬儀)後は、東京府南多摩郡横山村(現在の東京都八王子市長房町)の「多摩陵」へ葬られました。

大正天皇の逸話

富士山麓の「愛鷹山御狩場」(あしたかやまおかりば:静岡県富士市、皇室が所有した狩猟地)で、狩猟中に1人道にはぐれた大正天皇(当時は皇太子)は、たまたま通りかかった地元青年に道を教えてもらい、道中で民家へ立ち寄って勧められるまま、お茶漬けを食べたとされます。

他にも、陸軍の演習に参加した際に突然旧友の邸宅を訪ねたり、庶民が通う蕎麦屋へ足を運んだりしたという逸話が残るほど、大正天皇はとても気さくで自由奔放な性格でした。

また大正天皇は、洋風な物を好み、和服より洋服、日本酒より洋酒、娯楽ではビリヤード、ヨットでのクルージングなどを楽しみました。

さらに、大正天皇は「昭陽」(しょうよう)の雅号で、1896~1917年(明治29年~大正6年)の22年間に1,367首の漢詩を詠んでおり、これは歴代の天皇の中でも1番を誇る数。大正天皇の漢詩による詩碑は、現在も富山県と静岡県に残されています。ちなみに大正天皇の和歌については、生涯で465首ほど。歴代天皇の中でも突出して少ない数でした。

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