大正時代の重要用語

大正天皇と家系図 
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123代「大正天皇」は、日本の西洋化を推進し、大正時代から昭和時代初期の社会に大きな影響を与えた人物です。即位の礼において皇后の参列、洋食の導入など近代的な変革を行い、日本の文化や社会制度に西洋の要素を積極的に取り入れました。また、大正天皇の家系図に含まれる122代「明治天皇」とその妻「昭憲皇太后」(しょうけんこうたいごう)は、皇室と政治の構造を大きく変化させた人物です。大正天皇の家系図を通して、日本の近代化、国際的な発展、文化や社会制度の変遷などを紐解いていきましょう。

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123代「大正天皇」は、日本の西洋化を推進し、大正時代から昭和時代初期の社会に大きな影響を与えた人物です。即位の礼において皇后の参列、洋食の導入など近代的な変革を行い、日本の文化や社会制度に西洋の要素を積極的に取り入れました。また、大正天皇の家系図に含まれる122代「明治天皇」とその妻「昭憲皇太后」(しょうけんこうたいごう)は、皇室と政治の構造を大きく変化させた人物です。大正天皇の家系図を通して、日本の近代化、国際的な発展、文化や社会制度の変遷などを紐解いていきましょう。

大正天皇の功績

大正天皇

大正天皇

大正天皇の在位は1912~1926年(大正元年~大正15年)での15年間です。大正天皇は豊かな知識を持つ人物で、在位中は様々な改革に意欲的に取り組み、文化の振興にも尽力。また、穏やかな性格で知られており、国民からも親しまれていました。

大正天皇の功績は多岐にわたりますが、なかでも皇室制度の近代化を促進したことが挙げられます。例えば、自身の結婚の儀において、皇室で初となる神前結婚式を導入。これはキリスト教における結婚式の形式を神道とかけ合わせ、神主を神父に見立てたとされています。これをきっかけに、神前式は世間へ広く知れわたることとなったのです。

さらに、大正天皇は西洋の王室のあり方を参考にし、即位の礼に皇后である「貞明皇后」(ていめいこうごう)を参列させ、皇室に近代的な夫婦制度を取り込みました。即位の礼と同時に行われた「大饗の儀」(だいきょうのぎ:天皇が参列者と酒食を共にする儀式)でも、初めて洋食を取り入れています。また、大正天皇は一夫一妻制を尊重し、貞明皇后をエスコートするなど、西洋の礼儀作法を積極的に実践しました。

このように、日本の伝統と西洋の文化を積極的に融合させようとする大正天皇の振る舞いは、日本の西洋化を推進する追い風となり、日本近代化の基盤となったのです。

大正天皇の家系図とご家族

大正天皇は明治天皇の第3皇子として誕生。貞明皇后と結婚し4人の子供をもうけます。

祖父母

大正天皇の家系図

大正天皇の家系図

大正天皇の父方の祖父は、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)、祖母は公家「中山忠能」(なかやまただやす)の娘「中山慶子」(なかやまよしこ)です。

孝明天皇は1840年(天保11年)に皇太子となり、36歳の若さで死去。天皇としての在位期間は1846~1866年(弘化2年~慶応2年)の約20年でした。孝明天皇は、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)のうしろ盾でもありました。

中山慶子は明治天皇の生母であり、明治天皇の皇子である大正天皇が生まれた際にも養育を担当。中山慶子は剛直な性格で、教育に関して厳しい一面がありました。明治天皇が自身の幼少時代を回想し「若い頃はかなり厳しい人だった。私が与えられた予定の日課を終わらせないと、昼になっても食事を与えてくれなかった。」と語るほどです。

両親

明治天皇

明治天皇

大正天皇の父は明治天皇で、生母は明治天皇の側室だった「柳原愛子」(やなぎわらなるこ)。のちに、大正天皇は昭憲皇太后の養子となります。

明治天皇は1860年に正式に皇太子の座に就き、父親の急死により1867年(慶応3年)1月に天皇として即位しました。1868年(慶応4年/明治元年)に「明治」という新しい元号を制定。

1869年(明治2年)には、江戸を「東京」に改めて日本の首都としました。なお、明治天皇の在位中、「日清戦争」と「日露戦争」に勝利し国力が高まったため、偉大な統治者として尊敬されるようになります。

昭憲皇太后は、「一条忠香」(いちじょうただか)の三女として生まれ、幼少の頃から総明だったと言われた女性。また、産業や教育、社会事業の振興に力を注いだことでも知られ勧業、博覧会や共進会に参加して産業を奨励し、教育機関の設立援助や学校の訪問を通じて教育の発展にも貢献。さらに、博愛社の設立や、赤十字社、慈恵病院、愛国婦人会への支援など、社会的な活動にも積極的に取り組みました。

生母である柳原愛子は、公卿・華族の「柳原光愛」(やなぎわらみつなる)の次女として誕生。明治天皇に見初められ、1870年(明治3年)に宮中へ入り、1872年(明治5年)に明治天皇に仕えます。「権典侍」(ごんのないしのすけ:後宮の女官)となり、1879年(明治12年)に大正天皇を生みました。

子供

大正天皇には4人の息子がおり、長男が124代天皇「昭和天皇」(しょうわてんのう)です。昭和天皇は第2次世界大戦期に在位し、戦争と敗戦、復興を経験。日本の国民と苦難を共にし、戦後は復興と平和を目指しました。

大正天皇の次男は「秩父宮雍仁親王」(ちちぶのみややすひとしんのう)です。皇族としての役割を果たしながら、教育や文化の振興、環境保護など様々な分野で社会貢献を行いました。また、皇室とのつながりを大切にしながら、地域社会との交流を築きます。

大正天皇の三男は、「高松宮宣仁親王」(たかまつのみやのぶひとしんのう)です。高松宮家を創設し、皇族としての責務を果たしながら、障がい者支援や国際交流などの社会活動に積極的に取り組みました。宣仁親王は人々への共感と理解を大切にし、温かい人柄で知られています。

大正天皇の四男は「三笠宮崇仁親王」(みかさのみやたかひとしんのう)です。三笠宮家を創設し、自衛隊の発展やスポーツ振興などの分野で活動しました。また、環境保護や文化財保存などにも力を注ぎ、国内外での公務を通じて国際交流を促進した人物でもあります。

皇族の養子制度と日本の政治構造

楊斎延一 貴顕結婚式之図

楊斎延一 貴顕結婚式之図

大正天皇は側室の子として生まれましたが、当時の日本では、庶子(しょし:正室ではない女性の子)には皇位継承権が与えられません。将来の天皇が皇后の子ではないことが明らかになると、天皇の権威が低下する恐れがあるためです。

しかし、大正天皇の周辺には、皇太子となるべき人物がいなかったため、昭憲皇太后の養子となることが決定。そのため、幼いうちに母方の祖父である中山忠能に引き取られ、次期天皇として教育を受けます。のちに大正天皇は昭憲皇太后の養子となり、1889年(明治22年)に立太子の礼(りったいしのれい:次の天皇となる皇太子の決定を宣言する儀礼)を経て、皇太子となりました。

このように、養子制度は、天皇家の継承を確かにするための重要な制度です。養子制度で天皇の後継者を確保し、天皇の権威と地位を守ったことによって、天皇へ統治権が帰属する専制政治を明治時代・大正時代に実施できたと言えます。

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