「台湾出兵」(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った初の海外派兵です。その前年1873年(明治6年)には、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)への出兵もやむなしという「征韓論」(せいかんろん)を巡って明治政府首脳が分裂。結果として、「内治優先論」(ないちゆうせんろん:工業化や立憲制の確立など、内治の整備が先という意見)の主張に負ける形で、征韓論を主張した政府首脳がいっせいに辞職した「明治六年の政変」があったにもかかわらず、なぜ台湾出兵は行われたのでしょうか。
1871年(明治4年)9月に「日清修好条規」(にっしんしゅうこうじょうき)が締結され、日本と清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)は、対等な外交を開始していました。
しかし、日清修好条規が結ばれてわずか数ヵ月後の1871年(明治4年)11月、台湾に漂着した琉球王国(りゅうきゅうおうこく:現在の沖縄県、当時は鹿児島県の管轄)の宮古(みやこ:宮古島)・八重山(やえやま:八重山諸島)の漁民54名が、台湾の先住民パイワン族に殺害されてしまうという「琉球漂流民殺害事件」が発生。さらにその後も同様の痛ましい事件が頻発します。
当時の台湾は清が支配しており、漢民族(かんみんぞく:中国主流の民族)が島の西から北に定住。アミ族・パイワン族・タイヤル族・ブヌン族・タロコ族など十数の先住民族が東から南に定住していました。
日本は、台湾が清の支配下にあることから、その責任を清に追及しますが、清は、「台湾は化外の地[けがいのち]であり、清には責任はない」と返答。この「化外の地」とは、国家統治の及ばない野蛮人の地という意味で、国家の影響下にはあるが、責任は取れないという、言い逃れのような主張を通そうとしたのです。
これを受け、軍人・士族(しぞく:旧武士層)らから、台湾への懲罰を目的とした軍事介入が必要との強硬論が高まります。
士族達から台湾への軍事介入の声が上がったのには、もうひとつの背景がありました。
「四民平等」(しみんびょうどう:旧士農工商身分の平等化)によって、武士層は「士族」になります。この士族の生活を成り立たせていたのは、国家から支払われる「秩禄」(ちつろく)でした。秩禄とは、国家から支給される給与・賞与のことです。
「廃藩置県」(はいはんちけん:藩制度の廃止と府県の設置)後、明治政府は「家禄」(かろく:江戸時代に家臣へ与えていた給与)制度を藩から継承。さらに明治維新の功労者には、「賞典禄」(しょうてんろく:賞与)も支給していました。これらをまとめて秩禄とし、その支出は国家財政支出の30%を占める大きな負担。そのため、1873年(明治6年)頃から明治政府内でも、秩禄の削減が提言され始めていました。
そこで、秩禄を受け続ける根拠として、対外戦争で存在意義を示したいという気運が士族の中で湧き上がっていたのです。なかでも、明治政府内で盛んに議論されていた征韓論による李氏朝鮮への出兵を願う士族達が多くいました。しかし、士族達の征韓論への期待は「明治六年の政変」によって打ち砕かれます。
そんななか、明治六年の政変を経て、事実上、明治政府のトップに立っていたのは、「大久保利通」(おおくぼとしみち)でした。1873年(明治6年)11月に大久保利通は、新たに設立された内務省の最高職である内務卿(ないむきょう:内務大臣に相当)に就任し、「殖産興業」(しょくさんこうぎょう:工業化による資本主義により国家の近代化を推進した諸政策)へ本格的に着手します。
一方で、大久保利通は、何らかの形で士族達の不満のガス抜きを行うことを模索します。大久保利通が、そのガス抜きの対象と考えたのが、2年前の1871年(明治4年)11月に起こった琉球漂流民殺害事件。清とは日清修好条規を結んでいるとはいえ、清が責任逃れをしている以上、軍事介入に問題なしと考えた大久保利通は、台湾出兵を決めます。
このとき、「木戸孝允」(きどたかよし)はこれに反対。一度、明治政府を離れました。
1874年(明治7年)5月、日本は台湾出兵に踏み切りました。その指揮を執ったのは、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)の弟である「西郷従道」(さいごうつぐみち)でした。西郷従道は、総勢約3,000名の兵を率いて台湾へ赴き、マラリアにより500余名の死者を出しながらも、圧倒的な勝利をおさめます。
日本が台湾での勝利をおさめたのち、台湾出兵を巡る日清間の交渉は難航。しかし、大久保利通自らが清の首都・北京(ぺきん)へ赴き、外交交渉を行ったこと、またイギリスが間に入り調停を行ったこともあり、清は日本の台湾出兵を正当な行動だったと認め、事実上の賠償金を払うことに同意します。清からの賠償金は、現在の価値にして約150億円でした。
大久保利通にとって、この台湾出兵は大きな賭けだったと言われています。もし、清が台湾に兵隊を送っていたら、本格的な戦争へと発展していました。また、台湾出兵後、大久保利通自らが交渉を行ったわけですが、ここで日本の要求がはねつけられていたら、大久保利通の政治家としての面子を大きく潰すことになったからです。
また、この台湾出兵は、琉球王国を国際的に日本の帰属と認めさせる結果ともなりました。琉球王国は、江戸時代には薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)の支配下にありながら、清への朝貢(ちょうこう:臣下として貢ぎ物を捧げること)も続けており、日本・清の両方に属する構図になっていたのです。
その後、明治政府は、琉球王国を鹿児島県の管轄を廃して「琉球藩」(りゅうきゅうはん)とし、清への通商・朝貢の停止を求めますが、琉球藩王「尚泰」(しょうたい:旧琉球王国19代国王)は拒否。そこで1879年(明治12年)3月に「沖縄県」の設置が強行されます。これが「琉球処分」(りゅうきゅうしょぶん)と言われる出来事です。
そしてもうひとつ、この台湾出兵にはこんな逸話があります。輸送船の備えがなかった日本は、イギリス・アメリカの船会社による兵員の輸送を考えていましたが、いざその場になるとイギリスやアメリカは中立を理由に協力を拒否。
次に明治政府は、「日本国郵便蒸気船会社」(にほんこくゆうびんじょうきせんがいしゃ)に運行を委託することにしますが、日本国郵便蒸気船会社は、明治政府の保護を享受しているにもかかわらず煮え切らない態度を取ります。これは、軍事輸送を行っている間に新興著しい海運会社「三菱商会」(みつびししょうかい)に、顧客を奪われることを恐れたためでした。
そこで、長崎に設置された台湾蕃地事務局(たいわんばんちじむきょく:台湾出兵に関する事務機関)の長官「大隈重信」(おおくましげのぶ)が、その三菱商会を起用することを決意。大隈重信は、三菱商会を興した「岩崎彌太郎」(いわさきやたろう)を呼び直談判。
しかし、三菱商会にとっても、この大隈重信の要請を受けることは、経営戦略を根底から覆すことになり、岩崎彌太郎は当初沈黙。その後説得もあり、「国あっての三菱、引き受けましょう」と決断し、台湾出兵の運行は三菱商会に任されたのです。
台湾出兵が大久保利通らの思惑通りに展開したその後、三菱商会は明治政府から大型船造船が委託されるなど、大きく力を付けました。そして一方の日本国郵便蒸気船会社は、この三菱商会の競争相手になりえず、1875年(明治8年)6月に解散に追い込まれています。