「高野長英」(たかのちょうえい)は、江戸時代の医者・蘭学者(らんがくしゃ:オランダを通じて日本へ入ってきた西洋学問・技術の研究者)です。仙台藩水沢(せんだいはんみずさわ:現在の岩手県奥州市水沢)に生まれ、「シーボルト」(長崎のオランダ商館に赴任したドイツ人医師・植物学者)の門下生として学んだのち、江戸で町医者を開業。しかし、1838年(天保9年)の「モリソン号事件」を機に、「異国船を打ち払うべし」とする江戸幕府の政策を批判。「蛮社の獄」(ばんしゃのごく:西洋の学問を学ぶ者達が弾圧・投獄された事件)で囚われの身となり、脱獄と潜伏生活の果てに捕縛され命を落としました。
高野長英は、1804年(文化元年)6月12日、仙台藩水沢領主の家臣「後藤実慶」(ごとうさねのぶ)の三男として誕生。9歳で父を亡くし、母方の伯父「高野玄斎」(たかのげんさい)の養子となります。
高野玄斎は蘭方医で、その父も医者でした。医学・蘭学の書物に触れて暮らすうち、高野長英も医学に興味を持つようになります。そして17歳になった1820年(文政3年)、兄・従兄弟とともに医学を学ぶため江戸へ。ただし高野長英だけは、費用の問題もあり、養父の反対を押し切っての強行でした。
江戸で学び始めたその年、年上の医師に誘われ、西洋医学・蘭学を学ぶため、シーボルトが長崎で開いていた「鳴滝塾」(なるたきじゅく)へ。ほどなく卓越した能力を認められ、塾舎に住み込む「内弟子」となり、食住の心配なく学問に励みました。
ところが1828年(文政11年)、「シーボルト事件」(シーボルトが日本地図を国外に持ち出そうとした罪で捕らえられた事件)でシーボルトと、主な弟子が捕らえられてしまいます。しかし高野長英はいち早く危険を察知し、長崎を離れていたため難を逃れました。
難を逃れた高野長英は、行く先々で診療をしながら、1830年(天保元年)に江戸へ到着。麹町(こうじまち:現在の東京都千代田区麹町)で町医者と蘭学塾を開きました。このとき高野長英は27歳でしたが、患者はほとんどなく収入もわずか。
そんな折、蘭学を通じて交流のあった三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)田原藩(たはらはん:現在の愛知県田原市)藩士「渡辺崋山」(わたなべかざん)が、蘭学書の翻訳を依頼してきたため、生活の糧を得ることができたのです。
1832年(天保3年)以降、高野長英は渡辺崋山とともに、蘭学者の集まり「尚歯会」(しょうしかい)の中心メンバーとなり、政治・海防に関する問題を研究しました。
そして1838年(天保9年)、日本人漂流民7人を乗せたアメリカの商船モリソン号を、「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい:交易を認めた国以外の船が日本近海に現れた場合、砲撃せよと命じた法律)に基づいて、浦賀奉行所(うらがぶぎょうしょ:現在の神奈川県横須賀市にあった奉行所)が砲撃するという「モリソン号事件」が起きます。
これを知った高野長英は、著書「戊戌夢物語」で、江戸幕府の政策を批判。これによって、1839年(天保10年)、同じく江戸幕府を批判した渡辺崋山らとともに投獄されたのです(蛮社の獄:ばんしゃのごく)。刑は永牢(えいろう:終身刑)でした。
思いもよらぬ重罪に、高野長英はどうにか牢から出られるよう策を練りました。江戸幕府将軍の法事の際に恩赦を受けられないか、あるいは「人足寄場」(にんそくよせば:罪人などが手に職を付ける作業施設)で医者として働くのと引き換えに解放してもらえないかなど、知人を頼って江戸幕府に働きかけました。しかし、危険な政治犯と見られていたため、赦免(しゃめん)は叶いません。
そして1844年(弘化元年)、牢屋敷の火災が起きた際、焼死を防ぐため牢の扉を開放する「切り放ち」で外へ。3日間で牢へ戻る掟を破り、そのまま逃亡してしまいます。実はこの牢屋敷の火災は、高野長英が人を使って放火させたものでした。
逃亡後の足取りには諸説ありますが、水沢にいる母を訪ねたことは分かっています。その後は江戸に戻り、潜伏しながら兵法の書物を翻訳して生計を立て、一時は伊予国(いよのくに:現在の愛媛県)宇和島藩(うわじまはん:現在の愛媛県宇和島市)藩主のもとへ身を寄せました。
しかし江戸幕府の蘭学への締め付けが厳しくなり、洋書の購入、翻訳を制限されたうえ、江戸幕府に居場所が知れたとの情報が入ったため再び江戸へ逃亡。1849年(嘉永2年)には、硝酸(しょうさん)で顔を焼き、「沢三伯」(さわさんぱく)の偽名で開業しています。
しかし、1850年(嘉永3年)12月3日、江戸幕府の役人に潜伏先へ踏み込まれ、捕らわれて落命。死因は、捕縛の際に抵抗し自分の短刀で喉を突き刺した、あるいは役人に十手でひどく殴られて息絶えたなどの説があります。享年47歳でした。
長崎の鳴滝塾で学んでいた頃、高野長英は医学・蘭学の知識に加え、オランダ語の語学力を磨いてシーボルトの日本研究を支えました。日本語の文献をオランダ語に翻訳した他、オランダ語の論文も執筆。「日本に於ける茶樹の栽培と茶の製法」、「鯨及び捕鯨について」など、論文の数は弟子の中で最も多く、内容も優れていたと言われます。
一方、江戸へ戻ってからは、渡辺崋山の依頼で多数の蘭書を翻訳。鎖国下の日本で、渡辺崋山が世界情勢を理解し、海外の事情通と称されるまでになるのを支えました。
1832年(天保3年)、高野長英はフランス・ドイツの学者の書物をもとに、日本で初めて生理学を体系的にまとめた「医原枢要」(いげんすうよう)を発表。蘭方医学の研究に熱心に取り組んだ成果を、著書として残しました。
また、流行病(はやりやまい)から逃れるための方法を記した衛生学の本「避疫要法」(ひえきようほう)も著しています。さらに医学以外でも、「そばや馬鈴薯を育て飢饉に備えるべき」と記した「二物考」(にぶつこう)など、多数の著書を記しました。
最初に医学を学ぶため江戸へ出る際、高野長英は反対する養父を説得して、費用を捻出させています。しかも長崎留学の際に、さらなる借金を申込んで養父を激怒させてしまったのです。
1827年(文政10年)に養父が亡くなると、母の度重なる頼みにもかかわらず帰郷を拒否。すでに兄が亡くなっていたため、家督を継ぐのは高野長英だけでしたが、武士の身分を含む一切の相続を放棄し、絶縁してしまいます。
我を通して周囲の人間を振り回す気質でしたが、蘭学・医学を極めたいという強い思いがあったことも確かです。
学ぶ先々で才能を高く買われた高野長英ですが、特に語学力は卓越していました。シーボルトの門下生の中でも群を抜いていたと言われます。
蘭学者同士で、オランダ語しか使ってはいけないルールの勉強会を開いた際には、他の蘭学者から妬まれるほど。しかし強引に借金をしたり、仲間をいつまでも呼び捨てにしたりする不遜な態度から、仲間内では疎まれる存在だったとされています。
自己主張が強かった一方、高野長英は蛮社の獄で囚われの身となってからも、医者として囚人の医療に当たり、彼らに慕われました。牢屋敷で囚人を取り仕切る「牢名主」(ろうなぬし)を務めたことが、人望の篤さを物語っています。
ちなみに、牢屋敷の中でも手記「わすれがたみ」や、従兄弟へ送った「蛮社遭厄小記」(ばんしゃそうやくしょうき)を執筆し、蛮社の獄での無実を訴えました。これがのちの時代、人々が蛮社の獄の内容を知る重要な資料となったのです。