明治時代の重要用語

高島秋帆 
/ホームメイト

「高島秋帆」(たかしましゅうはん)は幕末期に活躍した砲術家で、日本初の洋式砲術訓練を行った人物です。「町年寄」(まちどしより)を務める名家・高島家に生まれ、父から砲術を学びました。さらに西洋砲術を自ら研究し、「高島流砲術」を確立したことで知られています。江戸での洋式砲術演習を行い、江戸幕府からも西洋兵術の第一人者として重用されました。しかしその後、無実の罪で幽閉(ゆうへい:一室に監禁して閉じ込めること)されてしまい、解放されたのはそこから12年後。日本社会全体を揺るがした、ある出来事がきっかけで解放されたのです。砲術家として幕末の日本にどのような影響を与えたのか、高島秋帆の生涯を振り返ります。

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「高島秋帆」(たかしましゅうはん)は幕末期に活躍した砲術家で、日本初の洋式砲術訓練を行った人物です。「町年寄」(まちどしより)を務める名家・高島家に生まれ、父から砲術を学びました。さらに西洋砲術を自ら研究し、「高島流砲術」を確立したことで知られています。江戸での洋式砲術演習を行い、江戸幕府からも西洋兵術の第一人者として重用されました。しかしその後、無実の罪で幽閉(ゆうへい:一室に監禁して閉じ込めること)されてしまい、解放されたのはそこから12年後。日本社会全体を揺るがした、ある出来事がきっかけで解放されたのです。砲術家として幕末の日本にどのような影響を与えたのか、高島秋帆の生涯を振り返ります。

高島秋帆の生涯

オランダ人から西洋砲術を学ぶ

高島秋帆

高島秋帆

高島秋帆が誕生したのは、江戸時代末期の1798年(寛政10年)。父の「高島四郎兵衛」(たかしましろべえ)は、長崎の町年寄を務めながら、出島砲台の番をしていました。

砲術家として活躍していた高島家の三男として生まれた高島秋帆も砲術を学び、1814年(文化11年)に父・高島四郎兵衛のあとを継ぎます。

その後、「長崎会所」の調役に就任。長崎会所とは、長崎の地に設置された貿易機関で、調役は管理する最高責任者です。

当時の長崎は、日本で唯一海外との交流が行われた場所。そんな土地柄で育った高島秋帆は、日本と海外の差を否が応でも感じていました。特に、日本と西洋の砲術に大きな格差があることを痛感し、出島に往来するオランダ人を通じて、オランダ語と西洋式の砲術を学ぶようになります。思い浮かんだ疑問を直接オランダ人に問いただしながら、海外の軍事技術を次々と習得していきました。

日本初の公開軍事演習を実施

高島秋帆が務めていた町年寄は、貿易を管理する役職。その特権を活かし、自身でも私費で欧州から銃器などを買い集めました。そして、それらをもとに研究を重ね、1834年(天保5年)には、ついに高島流砲術を完成させます。

その後、高島流砲術を周囲に教授するようになり、開設した私塾の門人は300人あまりと言われています。1835年(天保6年)には、肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県、長崎県)藩士で、28代佐賀藩自治領武雄領主の「鍋島茂義」(なべしましげよし)に高島流砲術を伝授し、自作の大砲も献上しました。

その後、高島秋帆は1840~1842年(天保11~13年)に起きた「アヘン戦争」で、イギリスが清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)を圧倒したことに大きな衝撃を受けます。「このままでは、日本を西欧列強から守れない」と強い危機感を抱き、砲術の近代化を訴える意見書「天保上書」を江戸幕府に提案。軍事力強化を進言した結果、1841年(天保12年)には門下生を引き連れて、日本初の洋式砲術と歩兵術の公開演習を江戸で実施しました。

高島流砲術が江戸幕府に採用される

砲術

砲術

西洋の力強い砲術を目の当たりにした江戸幕府は、高島流砲術を採用。

高島秋帆は、砲術家として江戸幕府に重用され、幕臣の「江川英龍」(えがわひでたつ)、「下曽根信敦」(しもそねのぶあつ)などに洋式砲術を伝授しました。江川英龍と下曽根信敦はいずれも私塾を持っており、高島秋帆から学んだ西洋式の砲術の普及に努めます。

江川英龍の私塾には、「木戸孝允」(きどたかよし)、「黒田清隆」(くろだきよたか)、「大山巌」(おおやまいわお)といった、そうそうたる面々が門下生として在籍していたことで有名。

また、江川英龍、下曽根信敦に「村上範致」(むらかみのりむね)を加えた3人は「高島門下の三龍」と呼ばれ、高島流砲術の普及に大きく貢献しました。

高島秋帆が投獄された理由

鳥居耀蔵による陰謀

高島流砲術を編み出し、江戸幕府にも認められた高島秋帆でしたが、そこから一転、失脚の道をたどることになります。1842年(天保13年)に、長崎奉行の「伊沢政義」(いざわまさよし)によって突如、高島秋帆は逮捕されてしまうのです。罪状は、長崎会所の責任者として長年ずさんな運営を続けていたことでした。

この裏には、高島秋帆の活躍を良く思わない人々の陰謀が隠れています。その中心人物は、幕臣の「鳥居耀蔵」(とりいようぞう)。鳥居耀蔵はかねて蘭学を嫌い、姻戚関係にある伊沢政義に、高島秋帆の投獄を依頼。結果として事実無根ながら、高島秋帆は謀反の罪を着せられてしまいました。

一説には、鳥居耀蔵の後ろ盾となっていた老中「水野忠邦」(みずのただくに)も、一連の高島秋帆逮捕劇にかかわったと言われています。

黒船来航で再度脚光を浴びる

その後、高島秋帆は、およそ12年もの間、幽閉されることとなりました。しかし、表舞台から退いた高島秋帆に、ある出来事がきっかけとなり、再度注目が集まります。

その出来事とは「黒船来航」。1853年(嘉永6年)に、アメリカのペリー提督が来航したことで、日本社会の状況が大きく変化。黒船の姿を目にした江戸幕府軍は、その軍事力に圧倒され、江戸幕府は「このままではまずい」という危機感を持ちます。その結果、洋式兵学に長けた高島秋帆に、恩赦が出されました。

幽閉から一転、解放されることとなった高島秋帆は、江戸幕府に対して外交政策について自身の考えを提言。このころ高島秋帆は、日本は鎖国ではなく国を開き、諸外国と交易をすべきだと考えていました。江戸幕府に、開国と通商を主張する「嘉永上書」を提出すると、江戸幕府もそれを受理。高島秋帆は、江戸幕府お抱えの武芸訓練施設において、再び師範を務めることになり、熱心に高島流砲術の指導にあたりました。

1864年(元治元年)には、「歩操新式」などの教練書を編纂。江戸幕府の軍事力強化に大きく貢献し、1866年(慶応2年)に満67歳で亡くなりました。

高島秋帆にまつわるスポット

都営三田線「高島平駅」

都営三田線「高島平駅」

高島秋帆に関連するスポットや名所は、日本各地に多く存在します。

東京都板橋区にある「高島平」(たかしまだいら)もそのひとつ。かつてこの地には、「徳丸ヶ原」と呼ばれていた砲術場がありました。そこでは、高島秋帆による日本初の洋式砲術訓練が行われており、それが地名の由来です。

高島平にある小学校、幼稚園の校章及び園章は、高島家の家紋がモチーフになっているところも多く、校歌に「徳丸ヶ原」、「秋帆」などの言葉が使われている学校もあります。

また、高島秋帆の出身地である長崎県長崎市には、「高島秋帆旧宅跡」が立地。父・高島四郎兵衛が建てた別邸で、国の史跡に指定されています。雨の日には、すぐそばに流れる小島川のせせらぎが聞こえることから、「雨声楼」(うせいろう)と呼ばれていました。1945年(昭和20年)に、雨声楼は原爆により大破してしまいましたが、敷地内には砲痕石、井戸などが残されています。

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