戦国時代で大きな宗教戦争とされているのが、「天文法華の乱」(てんぶんほっけのらん)です。天台宗(てんだいしゅう:最澄[さいちょう]を開祖とする仏教宗派)の総本山「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)の僧兵(そうへい:武装化した僧侶)が、日蓮宗(にちれんしゅう:日蓮[にちれん]が鎌倉時代に興した仏教宗派)の信徒を襲撃し、京都から追放した事件。この頃、各寺院では自衛のために武装することは当たり前で、宗派間の争いは激化するばかりでした。そんななか、京都では日蓮宗信徒の勢いが増し、他の宗派に対して公然と挑発的な態度を取るようになっていきます。こうした火種が積み重なって宗派同士の対立を生み、やがて京都の町を焼き尽くす大抗争に発展したのです。
室町時代の天文年間、京都で日蓮宗が急速に広まりました。京都市街だけで、21ヵ所もの本山(ほんざん:布教活動の中枢となる寺)が建立されています。信徒には公家(朝廷に仕える貴族)・武士もいましたが、中核となったのは町衆(まちしゅう)と呼ばれる商工業者。
1467年(応仁元年)から11年続いた「応仁の乱」(おうにんのらん)のあと、京都の復興を担った町衆には、日蓮宗信徒が多かったとされます。
町衆は、頻発する「土一揆」(どいっき:農民による武装蜂起)・「一向一揆」(いっこういっき:浄土真宗信徒による武装蜂起)など、町を荒らす勢力に対抗し、武装して日蓮宗のお題目を唱えながら、京都内外を巡回する打ち廻り(うちまわり)を行いました。さらに、京都の税金である地子銭(じしせん)の不払い運動を起こすなど、反権力の性格を強めていきます。
これに危機感を抱いた近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の守護大名(しゅごだいみょう:地方行政官)の「六角定頼」(ろっかくさだより)は、日蓮宗・天台宗両派の仲裁を試みます。
しかし、仲裁に失敗した六角定頼は、比叡山延暦寺側に加担。六角軍の援軍を受けた比叡山延暦寺の僧兵集団は、日蓮宗に総攻撃をしかけました。これが「天文法華の乱」です。
比叡山延暦寺は、60,000の僧兵を動員して京都中の日蓮宗の21本山をすべて焼き討ちしました。戦火は、下京全域と上京の3分の1を焼き尽くし、その被害は応仁の乱を上回るほどであったと言われます。
これによって日蓮宗信徒は京都から追放され、堺(さかい:現在の大阪府堺市)へ落ち延びます。
以後6年間、京都では、日蓮宗の布教活動は禁止されました。堺に避難していた日蓮宗信者は、京都への帰還を願って室町幕府に何度も申し入れを行っています。
1547年(天文16年)、勅許(ちょっきょ:天皇の許可)により禁教が解かれると、意外にも日蓮宗本山の焼き討ちを主導した六角定頼の仲立ちにより、比叡山延暦寺と日蓮宗の和解が成立。
そして、焼失した21本山のうち、「妙顕寺」(みょうけんじ:京都府京都市)をはじめ15の寺院が再建されました。