平安時代(794~1185年[延暦13年~文治元年])に、「最澄」(さいちょう)を開祖(かいそ)として誕生したのが日本の「天台宗」(てんだいしゅう)です。同時期に「空海」(くうかい)が開いた「真言宗」(しんごんしゅう)とともに、その後の日本仏教の進む方向に大きな役割を果たしました。特に最澄が開いた日本の天台宗は、「法華経」(ほけきょう)信仰に基づく天台宗の教えの他に、密教・禅宗・戒律・浄土教なども取り入れた総合仏教とも言え、後発の各宗派の母胎(ぼたい)となる役割と貢献を果たします。現在も最澄が開山した「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)を総本山として、天台宗は日本仏教の大宗派のひとつとして確固たる地位を築いています。
最澄は、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)三津(現在の滋賀県大津市)に766年(天平神護2年)もしくは767年(神護景雲元年)に誕生。
12歳で出家したのち、「東大寺」(奈良県奈良市)の戒壇院(かいだんいん:正式な僧侶となるために必要な戒律を授ける施設)で戒(かい)を授かります。
早くから才能を開花していた最澄は、そのまま東大寺で修学し栄達(えいたつ:出世)の道も待っていましたが、受戒後わずか3ヵ月ほどで東大寺を離れ、故郷に近い比叡山にて修行の道へ。
一説には、当時の南都六宗(なんとろくしゅう:奈良時代に栄えた日本仏教の6宗派の総称)の腐敗を嘆いたとも伝わります。比叡山で一人修行に明け暮れるなか、「一乗」(いちじょう)の教えに強く惹かれるようになり、これを体解(たいげ)するまで山を下りないという厳しい決意を固めたとされています。
一乗とは、最澄が終生学んだ経典「法華経」(ほけきょう)の教えにある「法華一乗」のこと。当時の仏教では、「仏になれる者、仏になれない者を区別する」という考えでしたが、最澄は早くから、「すべての人が仏になれる」と説く法華一乗思想に傾倒。
入山から3年後の788年(延暦7年)に、比叡山上に「一乗止観院」(いちじょうしかんいん)と自ら名付けた小さな寺院を建立しました。これが、現在の比叡山延暦寺の中心道場「根本中堂」(こんぽんちゅうどう)の前身です。
この最澄を重用したのが、平安京の遷都(せんと:都を移すこと)でも知られる第50代「桓武天皇」(かんむてんのう)。最澄は桓武天皇の後ろ盾のもと、804年(延暦23年)に還学生(げんがくしょう:遣唐使に同行して渡唐した学問僧)として唐(とう:7~10世紀の中国王朝)に渡ります。このとき一緒だったのが、真言宗の開祖・空海でした。
そもそも天台宗は、「慧文」(えもん)を始祖、教義を整理した孫弟子の「智顗」(ちぎ)を実質的な開祖とし、中国仏教のなかで生まれたもの。智顗は当時インドから中国へ伝えられた膨大な経典のすべてをひとつひとつ調べて整理し、そのなかで法華経が一番尊く、すべての人々を救うことができると確信。
法華経を中心とした、天台教学を打ち立てました。「天台」は、智顗が「天台山」(てんだいさん:中国浙江省)で修行したことから名付けられたものです。
最澄は、この天台大師・智顗の教えを極めたいと願い、高僧「道邃」(どうずい)と「行満」(ぎょうまん)から本格的に天台教学を学びます。合わせて「翛然」(しゅくねん)より禅の教えを、順暁(じゅんぎょう)からは密教の伝法を授けられます。こうして、帰国後の806年(延暦25年)に天台宗を比叡山の地に開いたのです。
日本仏教において、明治維新以前に成立していた仏教を「伝統仏教」と呼び、13の宗派に分かれます。天台宗はそのひとつですが、大きく次の2つの点で、非常に特筆すべき特徴を持った宗派と言えます。
まず、その先進性。インド仏教では最澄が説く「すべての人が成仏できる」という教えは主流ではなく、「仏になれる者、仏になれない者を区別する」という考えであり、日本でも奈良時代の仏教界でも同様でした。そのなかにあって最澄の主張は新鮮で魅力的に映るため、多くの人の心をつかみ、日本仏教を「万人成仏が当然」という方向へと導いていったのです。
もうひとつは、日本の仏教界を隆盛させた人材を、多数輩出した点。天台宗の総本山・比叡山延暦寺は、日本仏教の母体とも言うべき場所で、「法然」(ほうねん)・「日蓮」(にちれん)・「親鸞」(しんらん)・「道元」(どうげん)など、日本仏教の各宗の祖師がここで学び、あるいはここで出家得度(しゅっけとくど:剃髪して仏門へ入り僧となること)しています。
これは、「大乗仏教」(だいじょうぶっきょう:紀元前後に伝統仏教に対する革新運動から起こった新仏教)の教えに基づく戒壇院として、日本初の「大乗戒檀院」(だいじょうかいだんいん)が比叡山延暦寺に設置されたことが大きいとされています。
最澄は亡くなる直前まで、大乗戒檀院の開設に奔走。結果的には、最澄の死後1週間後に勅許(ちょっきょ:天皇の許可)が下ります。
また、最澄の意志を受け継いだ「円仁」(えんにん:第3世天台座主)・「円珍」(えんちん:第5世天台座主)・「良源」(りょうげん:第18世天台座主)らの活躍もあり、天台宗は法華経信仰を中核にしつつも、密教・浄土信仰・禅宗の原点「止観業」(しかんごう:めいそう)など豊かな要素を次々に導入。これらを背景に、多くの人材がここから育ち、のちの鎌倉仏教の興隆へとつながっていくのです。