江戸時代、世間で起きた事件を「瓦版」(かわらばん)が伝えたことはよく知られています。また1722年(享保7年)を初回として、合計3度の出版禁止令が出されています。これは当時の多くの人々が文字を読めたことの証拠でもあります。実は江戸時代における日本人の識字率(しきじりつ:全人口における文字を読める人々の割合)は30パーセントを超えており、これは当時の世界でもかなり高いレベルでした。この高い識字率を支えていたのが、庶民の子どもに「読み・書き・そろばん」といった初等教育を行った「寺子屋」(てらこや)でした。
平安時代の寺院は、僧侶を育成する以外に、武士などの子弟に対して初等教育を行っていました。このとき、寺院で教育を受ける子どもを「寺子」(てらこ)と呼んだことから、江戸時代の初等教育施設も寺子屋と呼ばれるようになりました。
寺子屋がいつ頃から庶民教育の場として成立したかは、正確には分かっていません。江戸時代になって産業が発達し、農民や商人、職人なども文字の読み書きや計算の知識が必要になりました。しかし自宅で教えることができないため、近所の知識人に教えてほしいと依頼したことで、各地で寺子屋が自然発生したと考えられています。
1883年(明治16年)に文部省が行った調査によると、寺子屋は19世紀に入る頃に急増。特に1855年(安政2年)から1868年(慶応4年)にかけての14年間には、毎年300軒を超える寺子屋が開業し、全国で15,560軒の寺子屋が開かれていたとされます。
多くの寺子屋では経営者の住宅を教室とし、経営者自身が「お師匠」と呼ばれて寺子を指導。師匠となったのは、武士や僧侶、神官など。他にも地域の長老や女性が教えることも少なくありませんでした。基本的にひとつの寺子屋に師匠はひとりで、10人前後の寺子を教えるという例が多かったようです。
寺子屋に入る年齢に決まりはありませんが、6歳くらいになると寺子となり、平均で5年ほど在籍しました。遅く入って長く学ぶ寺子もおり、今で言えば小中学生が同じ部屋で学んでいるというイメージです。しかし今のような学年はなく、師匠が各自に課題を与え、進度に合わせて助言するという形式が一般的。
授業の時間は1日6~8時間。教室は男女共学で、机の向きや場所も決まっておらず、好きな場所に座って勉強をしました。
寺子屋の入学金を「束脩」(そくしゅう)、毎月の授業料を「謝儀」(しゃぎ)と言います。しかし実際にお金で支払われたのは約2割で、その他は赤飯や酒・お菓子・餅(もち)などで支払われました。またお金の場合も額はほんのわずかで、お金を一切受け取らない寺子屋も珍しくありませんでした。
それは多くのお師匠が、地域の人々のために善意で経営していたからで、時には貧しい寺子に紙や筆、食事まで提供していました。さらには、毎朝ひとつかみの藁(わら)を持参させ、勉強の傍ら藁を編ませて縄をつくり、それを売ったお金で筆や紙などの購入費用を工面した寺子屋もありました。
子ども達の勉強は読み(読書)と書き(習字)が中心です。寺子は「手習本」(てならいぼん)、あるいは「往来物」(おうらいもの)と呼ばれる教科書から課題を何度も練習し、定期的に「清書」(きよがき)を提出。合格すれば次の学習に進むことができました。
半年または1年程度で1冊の教科書を終えると、「浚え」(さらえ)が行われます。これは読み・書きともに、これまでの学習内容を暗唱・暗書(あんしょ:手本を見ずに書くこと)して提出するというもので、今で言う定期試験です。大量の墨が必要になるため、何週間も前から家で墨を擦って寺子屋に持参したと言われます。
また大きな寺子屋には「席書」(せきがき)という行事がありました。これはいわゆる成績発表会で、師匠も寺子も正装して参加。寺子が順番に呼ばれて手本なしで清書を行い、成績が付けられて壁に張り出されました。また近所の人々も自由に見学できたため、寺子の成果を披露する場であると同時に、師匠の指導力を示すことができる一大イベントでした。
大きな寺子屋になると寺院の本堂を借り切って席書を行い、露店が周囲に立ち並んだほどであったと言われます。こうして寺子屋が教育の成果を披露するようになると、寺子屋同士の競争もエスカレート。
なかには教育効果を高めるために、寺子を「源平」(げんぺい)2組に分け、どちらが正しく読めるかを競わせたり、線香2~3本が燃え尽きるまで習字を行い、その量を競わせたり、独自の工夫で寺子を指導する寺子屋も出てきました。
寺子屋は個人が自由に経営する施設でしたから、文字さえ読めれば誰でもお師匠になれました。なかには無能な師匠も大勢いたと言われます。寺子やその親に書や絵画を売り付けたり、悪評が立つと突然行方をくらましたりという師匠も。しかしほとんどのお師匠は、ほぼ無収入で近隣の子ども達の成長を願った人格者であり、周囲から絶大な信頼を集めていました。
例えばその地域で事件があったとき、寺子屋の師匠達が連盟で請願すれば容疑者は無罪放免となり、村の紛争も師匠の仲裁で収まったと言われます。寺子は卒業後も師匠の宅を訪ねて様々な相談をし、家の慶事には必ず招待。
現在も墓地や旧家の屋敷内に「筆子塚」(ふでこづか)、「筆塚」(ふでづか)と刻まれた墓石や碑を見かけることがあります。これは、寺子屋で教えを受けた人々が師匠の業績を後世に伝えるためにつくった物です。
寺子屋を卒業した子ども達のほとんどが、家業を継いで農業や商工業に従事したと言われます。しかし約1割の寺子は、もっと専門的な勉強をしたいと考えました。そんな子どもの受け皿となったのが「私塾」(しじゅく)。
私塾とは、当時の学者などの有識者が、江戸幕府や藩の統制を受けることなく開いた施設のこと。寺子屋が初等教育であったのに対し、私塾は様々な学問を扱いました。
最も多かったのは「儒学」(じゅがく:中国の孔子[こうし]の思想を基本とする学問)の私塾。他にも「和学」(わがく:日本の歴史などを学ぶ学問)、「蘭学」(らんがく:オランダより伝わった西洋学問)・「医学」・「剣術」・「武術」などを教授する私塾もありました。
私塾としては、「吉田松陰」(よしだしょういん:長州[ちょうしゅう:現在の山口県]の武士・思想家)の「松下村塾」(しょうかそんじゅく)・「シーボルト」(日本で医学を教えたドイツ出身の医師)の「鳴滝塾」(なるたきじゅく)・「緒方洪庵」(おがたこうあん:大坂の医師・蘭学者)の「適塾」(てきじゅく:大阪大学の前身)などが有名。
これらの私塾から、新しい時代を築く若者が次々と生まれていったのです。