「津田塾大学」(つだじゅくだいがく:東京都小平市)の創始者「津田梅子」(つだうめこ)は、明治時代の日本における女子教育の先駆者です。2024年(令和6年)からは、新しい5,000円札の顔にもなります。日本初の女子留学生として、岩倉使節団に同行し、6歳で渡米。英語力とともに西洋の知識・教養を吸収し、帰国後は女性のための学校を作る夢を追い続けました。女性が自立することも、男性と対等に渡り合うことも困難だった時代に、津田梅子は日本女性の地位を高め、社会で活躍できる道を切り開いたのです。生涯を女子教育に捧げた津田梅子のぶれない生き方を、ご紹介します。
江戸時代末期の1864年(元治元年)、津田梅子は江戸幕府に仕えた「津田仙」(つだせん)の次女として、現在の東京都新宿区で誕生。
父・津田仙は、蘭学(らんがく:オランダ人が伝えた西洋学問)と英語を学び、江戸幕府の外国奉行(がいこくぶぎょう:外交を担当する職務)の通訳を務めた人物でした。
明治時代に入ると、明治政府が使節団をアメリカへ派遣することが決まり、同行する女子留学生を公募します。アメリカへ派遣される使節団のメンバーは、全権大使「岩倉具視」(いわくらともみ)・「木戸孝允」(きどたかよし)・「大久保利通」(おおくぼとしみち)・「伊藤博文」(いとうひろぶみ)など明治政府首脳が名を連ねました。
女子留学生の募集を知った父・津田仙は、これからの時代、英語は必ず武器になると考え、まだ6歳であった津田梅子を応募させます。明治政府の募集に応じた5人の女子留学生のなかで最年少でした。
1872年(明治5年)に、アメリカの首都ワシントンに到着した津田梅子ら留学生達は、当初共同生活を送りました。しかし日本語で会話してしまうため、なかなか英語が上達しません。そこで、各自が別々の家庭にホームステイし、現地の学校へ通うことになりました。日常会話、読み書きもすべて英語という環境で暮らすうち、津田梅子は次第に日本語より英語が自然に出てくるようになります。
津田梅子はアメリカで初等教育・中等教育を受け、優秀な成績を残しました。当時の日本では、女性に学問は必要ないという考えが根強いことを知った津田梅子は、いつか自分も日本で女性のための学校を開こうと決意。
しかし、11年の留学を終えて1882年(明治15年)に帰国した際には、逆に日本語をすっかり忘れており、日本語に慣れるまで苦労したとされます。
それまでの人生の半分以上をアメリカで過ごした津田梅子にとって、帰国後の日本での生活は戸惑いの連続。
特に「家父長制度」(かふちょうせいど)には、強い違和感を覚えました。家のなかでは父親が最上位で、その次が男子。食事・風呂、何もかも男性優先で、妻・娘は後回し。当時はそれが当たり前で、女性も疑問を持ちません。津田梅子は、自分が1人の人間として扱われないことがショックでした。
ともに留学した仲間達も、アメリカで積んだ経験を活かして活躍する訳ではなく、結婚し家庭に入っている人がほとんど。津田梅子にも縁談が持ち込まれましたが、「私は結婚ではなく、仕事がしたいのです」と突っぱねました。
帰国して1年が過ぎた1883年(明治16年)、津田梅子は使節団の一員で、のちに初代総理大臣となる伊藤博文と再会。
伊藤博文の紹介で、明治政府が設立した「華族女学校」(かぞくじょがっこう:華族[かぞく:旧貴族・大名層]の子女が通う学校)の英語教師となります。しかし、華族女学校の教育目標はあくまで良妻賢母の育成で、津田梅子が理想とする学校ではありませんでした。
津田梅子は24歳のときに、再びアメリカへ留学。将来、私学を開いて女性教育に活用したいと考えたのです。アメリカでの中等教育で理系学問の面白さを知っていた津田梅子は、ペンシルベニア州の「ブリンマー大学」で生物学を専攻。論文が高く評価されるなど優秀な成績を収め、アメリカに残って科学者の道へ進むよう勧められたほどでした。
津田梅子は、3年間の留学を終えて帰国。華族女学校の教師に復帰し、「女子高等師範学校」(じょしこうとうしはんがっこう:現在のお茶の水女子大学の前身)の教授なども兼任しました。
1898年(明治31年)には、アメリカのデンバーで開催された「万国婦人連合大会」(ばんこくふじんれんごうたいかい)に日本代表として出席。そこで津田梅子は、当時18歳の「ヘレン・ケラー」と面会し、視力と聴力を失いながらも、大学入学をめざして学ぶ姿勢に心を打たれます。
その後、津田梅子はイギリスに向かい、当時78歳の「フローレンス・ナイチンゲール」とも面会しました。「日本では女性の地位が低く、まともに教育も受けられません」と嘆くと、ナイチンゲールは「イギリスも40年前までは同じ。あなたも日本の女性のために頑張って」と励まされます。こうした出会いを通して、津田梅子は女性のための学校設立に夢を膨らませていったのです。
1900年(明治33年)、35歳になった津田梅子は、華族・平民といった身分の垣根を超えた女性のための私立学校「女子英学塾」(じょしえいがくじゅく)を設立。
開校時の学生はわずか10名でしたが、高等教育を行い、当時の女性にとって数少ない専門職である英語教員の育成に力を入れました。津田梅子の授業はとても厳しく、きちんと辞書を引いて完璧に予習してくることは当たり前。発音練習は何十回も繰り返させました。あまりのスパルタぶりに脱落者も続出します。
しかし津田梅子は「女性に能力があると証明できてこそ、自由や責任、権利が与えられる」と、一歩も引きません。津田梅子の思いに応えて必死に頑張り、女子英学塾を巣立った卒業生達は英語教員として全国で活躍し、次代を築く女性を育てるという津田梅子の志を受け継ぎました。
その後、津田梅子は1929年(昭和4年)に64歳で亡くなりましたが、女子英学塾は1948年(昭和23年)に創立者の想いを継承し、津田塾大学と改称。卒業生達は今も幅広い分野で活躍しています。
津田梅子が1892年(明治25年)にアメリカの遺伝学者「トーマス・ハンス・モーガン」博士との共同研究により執筆した論文「カエルの卵の発生研究」は、イギリスの権威ある学術誌に掲載されました。これは、日本女性初の快挙です。
トーマス・ハンス・モーガン博士は、帰国した津田梅子に、「アメリカへ戻ってきてほしい」と手紙を書いているほど。のちの1933年(昭和8年)、トーマス・ハンス・モーガン博士は、ノーベル生理学・医学賞を獲得しています。
アメリカの文化に強い影響を受け、一時は「鹿鳴館」(ろくめいかん:明治政府が先進国であることを諸外国に示すために築いた西洋館)で踊ったこともある津田梅子でしたが、日本の着物をどの服装よりも美しいと考えていました。
授業中も含め、生涯着物と袴を着用。女子英学塾の卒業生達は、津田梅子のことを「アメリカ育ちとは思えないほど、日本的で質素な生活をしていた」と証言。津田梅子は、アメリカの先進的な考えを身に付ける一方、日本の文化も尊重する公平な目を持っていたのです。