大正時代の重要用語

ヴェルサイユ条約 
/ホームメイト

「ヴェルサイユ条約」とは、「第1次世界大戦」(1914~1918年[大正3~7年])の講和(戦争を集結すること)条約のことです。1919年(大正8年)、フランスのヴェルサイユ宮殿で調印され、敗戦国となったドイツは、すべての植民地と国境地帯の領土を失い、さらに多額の賠償金支払いなど、厳しい条件を押し付けられました。イギリスとの日英同盟協約、ロシア帝国との日露協約により、勝者となった連合国側で参戦した日本は、中国山東省のドイツ権益を引き継ぎ、赤道以北のドイツ領南洋諸島(現在のパラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島など)の「委任統治権」(いにんとうちけん:当時の国際平和機構・国際連盟による承認のもと統治権を持つこと)を得たのです。

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ヴェルサイユ条約 
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「ヴェルサイユ条約」とは、「第1次世界大戦」(1914~1918年[大正3~7年])の講和(戦争を集結すること)条約のことです。1919年(大正8年)、フランスのヴェルサイユ宮殿で調印され、敗戦国となったドイツは、すべての植民地と国境地帯の領土を失い、さらに多額の賠償金支払いなど、厳しい条件を押し付けられました。イギリスとの日英同盟協約、ロシア帝国との日露協約により、勝者となった連合国側で参戦した日本は、中国山東省のドイツ権益を引き継ぎ、赤道以北のドイツ領南洋諸島(現在のパラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島など)の「委任統治権」(いにんとうちけん:当時の国際平和機構・国際連盟による承認のもと統治権を持つこと)を得たのです。

ヴェルサイユ条約の背景

緊張が高まるヨーロッパ諸国

第一次世界大戦と日本

第一次世界大戦と日本

19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ大陸においては、各国の利害が複雑に絡み合っていました。ドイツは、軍備を拡張し積極的な世界政策を進め、1882年(明治15年)にオーストリア=ハンガリーとイタリアとの間で、軍事協定である「三国同盟」を結び、ロシア帝国とフランスの「露仏同盟」との間で、対立を深めていきます。

一方、世界に先駆けて産業革命(エネルギー革命と、それに伴う社会構造の変革)を成功させて以降、経済力、国際的な地位を高め、「世界の工場」を誇っていたイギリスは、ドイツとの戦いに備え、1904年(明治37年)にフランスと「英仏協商」を結び、ロシア帝国もまた「日露戦争」(1904~1905年[明治35~36年])の敗北により、極東アジア地域からバルカン半島への進出策へと転じ、1907年(明治40年)に「英露協商」に踏み切っていました。

これにより、イギリス、フランス、ロシア帝国の間で「三国協商」が締結され、三国同盟との間に緊張が高まっていたのです。

初の世界戦争「第1次世界大戦」の勃発

そんななか、1914年(大正3年)、少数民族の対立が激しく、ヨーロッパ大国の利害が結びついたバルカン半島で、事件が勃発。オーストリア=ハンガリー皇太子が親ロシア派のセルビア人に暗殺された、いわゆる「サラエボ事件」です。これにより、オーストリア=ハンガリーとセルビアとの間で戦争が起こり、これが同年8月にはドイツとロシア帝国との戦争へ拡大。さらにフランスとイギリスもロシア帝国側に付いて参戦します。

ヨーロッパ諸国の覇権争いを背景に始まった戦争は、オーストリア=ハンガリー、ドイツを中心とした同盟国とイギリス、フランス、ロシア帝国、アメリカなどの連合国間で繰り広げられ、4年余りにも及ぶ初の世界戦争となりました。日本はイギリスとの「日英同盟協約」、ロシア帝国との「日露協約」の関係上、連合国側に立って参戦。ドイツとの三国同盟に加盟していたイタリアは、途中から三国同盟を離脱、三国協商に接近し、結果的に連合国側として参戦しています。

この第1次世界大戦は、当初、ドイツの同盟国側が優勢でしたが、1917年(大正6年)にアメリカが連合国側に立って参戦。すると、戦局は連合国側へ有利に展開します。そして1918年(大正7年)に、ドイツ国内で革命が起こって帝政(国王による統治)が崩壊し、同年11月にドイツは連合国側に休戦を申し入れ、ようやく第1次世界大戦は終結しました。

ヴェルサイユ条約の概要

パリ講和会議

ドイツの休戦は、アメリカ大統領「ウッドロウ・ウィルソン」が提唱した「14ヵ条」(秘密外交の廃止、いっさいの経済的障壁の除去、国際平和機構の創設など)を講和条件の素案とし、これをドイツ側が受け入れたことで、実現。

休戦翌年の1919年(大正8年)には、フランス・パリで講和会議が開かれ、日本も5大連合国の一員として参加しました。

ヴェルサイユ条約調印後の影響

新渡戸稲造

新渡戸稲造

約半年間続いたパリ講和会議ののち、同年6月に講和条約が調印。これが「ヴェルサイユ条約」です。ヴェルサイユ条約の内容は、敗戦国のドイツ側に巨額の賠償金を課すとともに、軍備を制限し、ドイツ本国領土の一部を割譲(かつじょう:領土を譲り渡す)させるという、ドイツ側にとっては厳しいものでした。

一方、第1次世界大戦で疲弊した国際社会には、平和を求めるムードが漂います。これを背景に、ヴェルサイユ条約によって東欧に多数の独立国家を誕生。さらに、国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関として「国際連盟」の設立を実現したのです。

日本はイギリス、フランス、イタリアとともに常任理事国(任期が設定されていない理事国で、重要事項における議決権を持つ)となり、「新渡戸稲造」(にとべいなぞう)が事務局次長に就任するなど、新興国として存在感を示しました。このヴェルサイユ条約に基づくヨーロッパの新しい秩序は、「ヴェルサイユ体制」と呼ばれています。

ヴェルサイユ条約と日本

日本は、ヴェルサイユ条約によって、中国大陸の山東半島(さんとうはんとう)の旧ドイツ権益の継承が認められ、さらに赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。ドイツの占領下だった南洋諸島は日本に統治が委任され、植民地に近い形になりました。なお、「第2次世界大戦」後の信託統治は、この委任統治を受け継いだものです。

しかし、山東半島の権益については、パリ講和会議においてアメリカなどが反対の意思を示しました。これは、第1次世界大戦中、欧米列強の関心が中国大陸から離れているのを見て日本が権益拡大のために、中華民国(清王朝を廃して成立した新政権)へ示した「二十一ヵ条の要求」が背景にあります。

第1次世界大戦において日本は当初、中立の立場を取っていましたが、イギリスからドイツ海軍東洋艦隊を牽制して欲しいとの要請を受け、日英同盟協約のもと参戦を決定。この参戦には、その表向きの理由とともに、裏の理由がありました。

当時の第2次「大隈重信」(おおくましげのぶ)内閣の「加藤高明」(かとうたかあき)外務大臣が、「日英同盟を根拠に参戦し、極東アジア地域からドイツの植民地を一掃し、日本の国際的地位を高める機会にしたい」という方針を画策し、参戦が決まったのです。のちに、イギリスは日本の参戦を望まない態度に変わりましたが、日本側はそれを押し切り、山東省とドイツ領南洋諸島を軍事的に征圧しました。

そして日本は、1914年(大正3年)に中国大陸のドイツ租借地を占領すると、まだ第1次世界大戦の終結が見えないなか、翌1915年(大正4年)1月、中華民国に対して二十一ヵ条の要求を突き付けます。この二十一ヵ条の要求の内容は、山東省のドイツ権益の継承以外に、南満州及び東部内モンゴル権益の99年間延長、さらに日中合弁事業(共同事業)の承認といったもの。この要求に中華民国は強く反発しましたが、日本の軍事的圧力により、要求の大部分を承認しました。

パリ講和会議に、日本と同じく連合国側の一員として参加していた中華民国は、二十一ヵ条の要求の撤回を会議で訴えましたが、各国より拒否されています。また、旧ドイツ権益の中華民国への直接返還などを求める学生、商人、労働者の反日国民運動が国内で起きたため、結果的に中華民国政府は、ヴェルサイユ条約の調印を拒否しました。

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