大正時代の重要用語

第一次世界大戦 
/ホームメイト

「第一次世界大戦」は、1914年(大正3年)6月のオーストリア=ハンガリー皇太子夫妻がセルビア青年に暗殺された「サラエボ事件」を引き金に、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツなどの同盟国とイギリス、フランス、ロシア帝国、アメリカなどの連合国との間で、1914~1918年(大正3~7年)の4年余りにわたって行われた戦争です。最初の世界戦争で、日本は日英同盟などを理由に、連合国側で参戦しました。

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「第一次世界大戦」は、1914年(大正3年)6月のオーストリア=ハンガリー皇太子夫妻がセルビア青年に暗殺された「サラエボ事件」を引き金に、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツなどの同盟国とイギリス、フランス、ロシア帝国、アメリカなどの連合国との間で、1914~1918年(大正3~7年)の4年余りにわたって行われた戦争です。最初の世界戦争で、日本は日英同盟などを理由に、連合国側で参戦しました。

第一次世界大戦の背景

サラエボ事件の発生

第一次世界大戦と日本

第一次世界大戦と日本

20世紀初頭のヨーロッパでは、ドイツが東方アジア地域へ向けて積極的な対外政策を進めるなか、列強諸国間の帝国主義的(自国の利益を高めるため他国を侵略しようとする政治思想)な利害関係が緊張感を増し、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアの「三国同盟」と、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」との対立があらわになっていました。

当時、これらヨーロッパ列強諸国が領土拡大のチャンスとして進出を企てていたのが、ヨーロッパ南東部のバルカン半島です。バルカン半島は、19世紀頃にオスマン・トルコ帝国(現在のトルコ共和国)の国力が衰えると、スラブ系(東ヨーロッパ民族)、ゲルマン系(中央ヨーロッパ民族)など様々な民族、宗教が入り混じって紛争が絶えず、そこへヨーロッパ列強諸国の利害が加わり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる一触即発状態となっていました。

そのバルカン半島にある、ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボで、1914年(大正3年)6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア民族主義者(政治面において民族の独立、利益を追求する思想)によって暗殺されるサラエボ事件が発生。

これにより、オーストリア=ハンガリー帝国が、セルビアに宣戦布告します。その後、セルビアを支援する三国協商側と、オーストリア=ハンガリー帝国を支援する同盟国側がそれぞれ参戦し、第一次世界大戦へと進んだのです。

アガディール事件

第一次世界大戦の直接的なきっかけはサラエボ事件ですが、歴史家の多くが「実はこれが第一次世界大戦の端緒である」と指摘している出来事が、1911年(明治44年)7月1日に発生した「アガディール事件」です。アガディール事件とは、第2次モロッコ事件とも言われており、ドイツがモロッコのアガディール港に軍艦を派遣し、フランスを威嚇した出来事でした。

1911年(明治44年)、フランスの保護領となっていたモロッコの首都フェズで反乱が起こり、その鎮圧のためにフランス軍が出兵。これに対しドイツは、ドイツ人が現地で残虐行為に遭っているとフランス側を非難して軍艦の派遣を正当化し、モロッコ南部の権益を確保しようとしたのです。しかし、実のところモロッコ南部にはドイツ人はひとりもおらず、そのため、ドイツ側は保護すべきドイツ人をわざわざモロッコ南部へ派遣するという暴挙に出ます。

その上、残虐行為を受けているはずのドイツ人がアガディール港に到着したのは、ドイツ軍艦が到着してから4日後のこと。彼らは山岳地帯を馬で強行突破したため、確かにボロボロにはなっていたと言われていますが、事実と違うことは明白です。このドイツ側の見え透いた行為に対して、フランスの投資家がドイツ市場から資金を引き揚げてしまい、ドイツで株式市場が暴落。これにより、ヨーロッパ中に「戦争近し」という意識が広がりました。

「ドイツ」対「他の欧州列強」との対立が明らかに

アガディール事件を契機に、ヨーロッパ列強諸国は国民の支持を得ると、予算を投じて軍部拡充を始めました。1912年(大正元年)6月、ドイツは戦艦の建造ペースを維持する「第5次艦隊法」を成立させるとともに、陸軍の平時兵員目標数も増強。

一方、「露仏同盟」を結んでいたフランスとロシア帝国の関係が強化され、同年7月にはフランスが貧弱なロシアの鉄道インフラ網に対して、軍事目的用に50億フランの無利子借款(しゃっかん:国家間のお金の貸し借り)を約束。また、ロシア帝国側も、ドイツとフランス開戦時には、2週間以内に背後からドイツを攻撃すると約束しました。

さらに、同年11月、英仏両海軍が戦時の行動範囲の取り決めをしています。ドイツと開戦した場合、フランス海軍は地中海へ集中し、イギリス海軍は英仏海峡から北海に及ぶフランス北辺の防備を担当することが決定。親善協力関係として結ばれていた「英仏協商」は、事実上の軍事同盟となりました。

翌1913年(大正2年)に入ると、ドイツでは陸軍大増強法案の審議を開始しますが、議会側は陸軍の要求よりも多い予算を陸軍へ割り当てるという、異例なことが起こります。同時期に、フランスではドイツ攻略作戦「第17計画」の採用を決め、2年の徴兵期間を3年に延長。翌1914年(大正3年)4月には、フランス、イギリス間において極秘の「W計画」が策定され、英仏両参謀本部(作成の立案、行使をする機関)によって、宿営地、糧秣(りょうまつ:兵士の食糧と軍馬の飼料)の集積所の位置など、開戦時の兵站(へいたん:戦闘地帯における後方の軍の諸活動、諸施設の総称)の詳細までが、詰められていたとされています。

つまり、各ヨーロッパ列強諸国において、近いうちに戦争が起こるだろうと判断していました。そんななかでサラエボ事件が起こり、第一次世界大戦の引き金となった訳です。

第一次世界大戦の概要

同盟国と連合国に分かれて参戦

第一次世界大戦は、端的に言うと、同盟国と連合国との間で行われた戦争です。同盟国とは、三国同盟を背景とする国々。当初、三国同盟を結んでいたイタリアは、戦争が始まると三国同盟を破棄し、のちに連合国側で参戦しています。

一方の連合国は、三国協商の側に付いた国々。日本は、「日英同盟」を理由に連合国側に加わり、三国同盟を破棄したイタリア、次いでアメリカ、中華民国(清を廃して成立した政権)も次々と加わり、連合国への参加は最終的に27ヵ国となりました。

初の総力戦

戦車など新兵器が次々投入された

戦車など新兵器が次々投入された

第一次世界大戦の特徴として、最初の「総力戦」であったことが挙げられます。総力戦とは、戦争目的に向かって、軍事力だけでなく、各国の経済力、工業力、技術力、そして人的諸能力を最大限に組織し、国のすべてを動員する戦争形態のこと。

そうしたなかで、第一次世界大戦では、戦車、飛行機、潜水艦、毒ガスなど新兵器を次々と開発し、投入していきました。

総力戦となったことで、各国とも短期決戦で挑んだはずが、第一次世界大戦は、4年にも及ぶ長期戦争となるのです。

第一次世界大戦の経緯と結末

戦況は初め、ドイツを中心とする同盟国側が優勢でした。また、1917年(大正6年)には連合国側のロシア帝国が「ロシア革命」(ロシア帝国内における政治的クーデター)によって戦争から離脱。しかし、その後、イギリスの海上封鎖に苦しんだドイツが「無制限潜水艦作戦」(敵国と思われる艦船、船舶に対し無警告で攻撃する作戦)を始めたのをきっかけに、それまで中立を保っていたアメリカ国内で反ドイツ世論が高まり、同年、アメリカは連合国側へ参戦。これにより、戦局は連合国側に有利な展開となりました。そして、翌年の1918年(大正7年)に、ドイツが降伏して4年に及んだ戦争はようやく終結したのです。

1919年(大正8年)に、フランスの「ヴェルサイユ宮殿」において、第一次世界大戦の講和条約「ヴェルサイユ条約」が調印されます。敗戦国となったドイツは、すべての植民地と国境地帯の領土を失い、さらに多額の賠償金支払いなどの条件を押し付けられました。連合国側の一員として参戦した日本は、中国山東省のドイツ権益を引き継いだ他、赤道以北のドイツ領南洋諸島(現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル諸島など)の委任統治権も得ています。

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