明治時代の重要用語

山縣有朋 
/ホームメイト

「山縣有朋」(やまがたありとも)は江戸時代末期の武士であり、明治・大正時代の軍人、政治家です。幕末には長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)藩士として、討幕運動に参加しました。明治維新後は、欧米諸国と対等になることを目指し、日本の軍事力を高めて、武力による国家の近代化に注力します。兵力の増強を続け、「日清戦争」(にっしんせんそう)、「日露戦争」(にちろせんそう)では日本を勝利へと導きました。また、山縣有朋は軍事面だけでなく、政界でも活躍した人物。明治時代に2度の内閣総理大臣を経験しています。

明治時代の重要用語

山縣有朋 
/ホームメイト

文字サイズ

「山縣有朋」(やまがたありとも)は江戸時代末期の武士であり、明治・大正時代の軍人、政治家です。幕末には長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)藩士として、討幕運動に参加しました。明治維新後は、欧米諸国と対等になることを目指し、日本の軍事力を高めて、武力による国家の近代化に注力します。兵力の増強を続け、「日清戦争」(にっしんせんそう)、「日露戦争」(にちろせんそう)では日本を勝利へと導きました。また、山縣有朋は軍事面だけでなく、政界でも活躍した人物。明治時代に2度の内閣総理大臣を経験しています。

幕末動乱期に倒幕派として健闘

槍の名手から尊王攘夷志士へ

山縣有朋

山縣有朋

山縣有朋は1838年(天保9年)、長州藩にて、非常に身分の低い武家に誕生。幼名を「辰之助」(たつのすけ)と言い、のちに「小助」・「小輔」(こすけ)・「狂介」(きょうすけ)と名前を変え、1871年(明治4年)に「有朋」へと改名します。

元服(げんぷく:成人としての儀式)後はの稽古を積み、武道の達人として知られるようになりました。和歌を好む父から学問を教わり、歌を詠むなど文学的な面もあったと言い、多くの和歌を残しています。

1858年(安政5年)、山縣有朋は「尊王攘夷運動」(そんのうじょういうんどう:天皇を尊び、外国を排除する活動)を行う尊王攘夷派の「久坂玄瑞」(くさかげんずい)から勧められ、私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)へ入塾。松下村塾の塾長で思想家「吉田松蔭」(よしだしょういん)に影響され、江戸幕府に反発する活動へ参加します。

その後、山縣有朋は「高杉晋作」(たかすぎしんさく)が結成した「奇兵隊」(きへいたい)に入り、下関海峡(しものせきかいきょう)で外国船を砲撃するなど攘夷活動に傾倒。

しかし1864年(元治元年)、イギリス・アメリカ・フランス・オランダによる4ヵ国連合艦隊との「下関戦争」(しものせきせんそう)に長州藩は敗北し、欧米列強との力の差を実感することに。これ以降、長州藩は江戸幕府を倒す「倒幕」へ方針を転換していくのです。

第二次長州征伐から戊辰戦争での活躍

倒幕活動を進めた結果、長州藩は江戸幕府からの攻撃を受けます。1864年(元治元年)、1866年(慶応2年)の2度にわたって江戸幕府による「長州征伐」(ちょうしゅうせいばつ)が行われ、長州藩対江戸幕府の戦争が勃発。

2度目となる「第二次長州征伐」で、山縣有朋は大きく活躍します。第二次長州征伐の直前に薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)との連合交渉がまとまり、薩摩藩を通してイギリスから仕入れた大量の鉄砲が重宝しました。高杉晋作が指揮を執り、山縣有朋が軍艦の艦長を務めた長州藩は、江戸幕府を撃破。

さらに、1868年(慶応4年)、長州藩・薩摩藩を中心とした明治政府軍と、旧江戸幕府軍による「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が始まると、山縣有朋は奇兵隊を率いて全国各地を転戦。激戦の末、越後国(えちごのくに:現在の新潟県)の「長岡城」(ながおかじょう:新潟県長岡市)を陥落させるなど、粘り強く戦いました。こうした勝利を経て、新たな明治時代が幕開けしたのです。

目指したのは「強い日本」

徴兵制と西南戦争

明治時代に入ると、山縣有朋は1869年(明治2年)に西欧の軍制度を視察します。帰国後、兵部省(ひょうぶしょう:現在の防衛省)に配属され、軍制度の整備に着手。これまでの武士による軍制度を廃止し、国民全員に兵役を義務付けようとします。

長州藩出身の軍人「大村益次郎」(おおむらますじろう)が軍制度の基礎をつくったものの、士族(しぞく:旧武士層)の恨みを買って暗殺されます。そこで、大村益次郎の跡を継いだ山縣有朋は、士族の人気が高い旧薩摩藩の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)を味方に付けます。

1871年(明治4年)に「廃藩置県」(はいはんちけん:藩を廃止して県を置き、藩兵を消滅させる)が公布されると、兵部省は陸海軍省に分かれ、山縣有朋は事実上のトップである陸軍大輔(りくぐんたいふ:陸軍副大臣に相当)に就任。1873年(明治6年)に「徴兵令」(ちょうへいれい:国民の兵役義務を定めた法令)が公布され、日本初の軍隊が誕生したのです。

この直後、西郷隆盛は「征韓論」(せいかんろん:李氏朝鮮[りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝]を武力で開国させること)を唱え、「伊藤博文」(いとうひろぶみ)らの反対にあい失脚(明治六年政変:めいじろくねんのせいへん)。

その後、西郷隆盛は1877年(明治10年)に故郷の鹿児島で、士族の反乱「西南戦争」(せいなんせんそう)を起こしました。このとき、日本軍を指揮して反乱を鎮めたのが山縣有朋であり、敗戦した西郷隆盛の自害を聞き、非常に悲しんだとも言われています。

軍国主義による日本統一

欧米諸国に肩を並べるため、「天皇を中心とした強い国づくり」を目指した山縣有朋は、軍事的な政策を行いました。

まず、軍人の精神的なよりどころとして、1882年(明治15年)に「軍人勅諭」(ぐんじんちょくゆ)を発表。軍隊は天皇直属であると記し、軍人は上官の命令に絶対的に従うように明文化しました。さらに、廃藩置県を行った地方に対し、1888年(明治21年)に市町村制、その2年後1890年(明治23年)に府県制・郡制を公布しています。地方自治体による支配と日本軍による全国統治を結び付けて、軍事国家としての一体感を高めようとしました。

そして、1889年(明治22年)に、山縣有朋は3代内閣総理大臣に就任し、第1次山縣有朋内閣が発足。山縣有朋が手掛けた最も著名な政策が、翌1890年(明治23年)に発布された「教育勅語」(きょういくちょくご)です。日本人の道徳のあり方、社会的なルールをまとめたもので、国民全体の意識の統一を図りました。

2つの戦争の指導者

日清戦争と三国干渉

軍備の増強を行い続けた山縣有朋が、常に意識していたのは朝鮮半島でした。清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)、ロシア帝国と、この地を争うことを想定。予想通り、1894年(明治27年)に朝鮮半島の内乱「東学党の乱」(とうがくとうのらん)が起きると、清と日本の両国が出兵して乱を平定。これをきっかけに両軍が衝突し、日清戦争が始まります。

山縣有朋は当時56歳。陸軍最高位、かつ元首相という特別な立場でありながら、強い希望により軍司令官として従軍。山縣有朋は途中で帰国することになるものの、日本軍は清に大勝。

1895年(明治28年)に調印した「下関条約」(しものせきじょうやく)で、李氏朝鮮が清から完全独立すること、遼東半島(りょうとうはんとう:清が所有する半島)と台湾の日本への割譲(かつじょう:領土を割いて譲ること)、多額の賠償金を勝ち取ります。

しかし、日本を脅威と感じたロシア帝国・フランス・ドイツによる「三国干渉」(さんごくかんしょう)により、日本は遼東半島を清へ返還。山縣有朋は「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん:耐え忍ぶこと)を合言葉に、ロシア帝国との対ロシア戦戦争に向けてさらなる軍備増強を決心したのです。

日露戦争の勝利から列強の一員に

1900年(明治33年)、清で宗教的秘密結社「義和団」(ぎわだん)による外国人を排斥する暴動「義和団事件」(ぎわだんじけん)が起こり、日本をはじめ8ヵ国が清へ出兵。

ここで日本はロシア帝国が清だけでなく、李氏朝鮮をも狙っていることに気が付きます。そこで山縣有朋は、ロシア帝国と対抗するためにイギリスとの同盟を進め、1902年(明治35年)に「日英同盟」(にちえいどうめい)を調印。

これを機にロシア帝国は日本への態度を強め、ついに1904年(明治37年)に日露戦争が勃発します。ロシア帝国陸軍は日本陸軍に対し約6倍もの人数、戦艦の数もロシア帝国は日本の倍と、圧倒的に不利な条件での戦争でした。

山縣有朋は再び軍司令官を申し出たものの、122代「明治天皇」(めいじてんのう)の指示で大本営(だいほんえい:日本にある軍総司令部)の指揮を執ることになります。日本はアメリカやイギリスの支援を受けて戦いましたが、人員・軍費ともにほぼ限界。対するロシアも国内で革命(ロシア革命)が起き、戦争どころではなくなります。

山縣有朋は講和(こうわ:戦争を終結させること)を急ぎ、1905年(明治38年)に「日本海海戦」(にほんかいかいせん)で日本が勝利した直後、アメリカのポーツマスで講和条約を締結。賠償金を得られないなど、悪条件を飲んだ上での勝利でした。しかし、これを機に日本は欧米列強の仲間入りを果たし、山縣有朋が長年思い描いた夢が叶ったのです。

歴史が生んだ友情と対立

伊藤博文と山縣有朋

江戸時代末期、山縣有朋とともに松下村塾で学んだ仲間の1人に伊藤博文がいます。明治政府の要人として活躍し、山縣有朋にとって生涯の友人でありライバルでした。

伊藤博文は明治政府の初代内閣総理大臣を務め、合計4回の総理大臣を経験。さらに憲法制定のためにヨーロッパを視察し、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を発布します。ここから伊藤博文は、立憲君主制(りっけんくんしゅせい:憲法で規定される立憲国家)の確立と政党政治を進めようとしました。対して山縣有朋は、政党政治を拒否し、元長州・薩摩藩の有力者による政治と、天皇の神格化を目指します。

明治時代末期、2人ともが元老(げんろう:天皇の補佐役)となり、たびたび意見が衝突。日露戦争に際しても、ロシアとの協調を主張する伊藤博文と、ロシアとの戦争を覚悟した山縣有朋は対立していたのです。しかし、日露戦争後の1909年(明治42年)、韓国の初代統監として赴任した伊藤博文が暗殺されると、山縣有朋は歌を詠んで死を悼んでいます。

「語りあひて 尽しし人は 先だちぬ 今よりあとの 世をいかにせむ」
(国のために語り合ってきた友は先立ってしまった。これから先の日本をどうしたら良いのだろう)

伊藤博文亡きあとも、山縣有朋は元老として政治に大きな影響を与え続けました。

山縣有朋をSNSでシェアする

注目ワード
注目ワード