「柳沢吉保」(やなぎさわよしやす)は、江戸時代初期から江戸時代中期にかけて江戸幕府を支えた人物です。江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)に重用され、小姓(こしょう)から甲府藩(こうふはん:現在の山梨県甲府市)藩主へと異例の出世をしたことでも知られています。石高にして530石から220,000石という大昇進でした。大名時代には徳川綱吉の側近として大きな力を持ち、その権力は老中(江戸幕府の重職)をしのぐほどだったとされます。柳沢吉保の生涯を振り返りながら、いかにして出世の道を歩んでいったのかを見ていきます。
1680年(延宝8年)に、館林藩主・徳川綱吉が江戸幕府将軍の跡継ぎとして「江戸城」(東京都千代田区)に入城するとともに、柳沢吉保も付き添い、「小納戸役」(こなんどやく:江戸幕府将軍の身辺雑務役)に任命されます。ここから一気に、柳沢吉保の出世街道がスタート。
翌年の1681年(天和元年)には300石が加増され、さらに1683年(天和3年)には200石増えて1030石となりました。その後も着実に石高を増やしていき、1688年(元禄元年)には「側用人」(そばようにん:江戸幕府将軍の命を老中へ伝える役)に就任。この年には12,000石の大名として、上総国(かずさのくに:現在の千葉県中部)の「佐貫城」(さぬきじょう:千葉県富津市)が与えられました。
1694年(元禄7年)には、「川越城」(かわごえじょう:埼玉県川越市)に移封(いほう:領土替え)となり、石高も72,000石に増加。そして、柳沢吉保の一番の出世となる甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の甲府城主へと成り上がります。
江戸時代における甲斐国と言えば、江戸の西側を守る要衝。江戸幕府成立以降、尾張徳川家初代「徳川義直」(とくがわよしなお)、江戸幕府3代将軍「徳川家光」の三男「徳川綱重」(とくがわつなしげ)など、徳川家の親族が、歴代の甲府城主を務めていました。そんななか、1704年(宝永元年)に、徳川綱吉の計らいで柳沢吉保へ甲府城が与えられたのです。
それまでの流れを鑑みると、この人事は異例中の異例でした。柳沢吉保は甲斐国を与えられたときの喜びを、「めぐみある 君につかえし 甲斐ありて 雪のふる道 今ぞ踏みみん」と表現。このときの石高は、200,000石超と当初に比べると数百倍にも増えたのでした。
晴れて甲斐国を治めることになった柳沢吉保ですが、1709年(宝永6年)に徳川綱吉が死去すると、長男「柳沢吉里」(やなぎさわよしさと)に家督を継承。
柳沢吉保は江戸の駒込で隠居生活を送り、1714年(正徳4年)には同地にある「六義園」(りくぎえん:東京都文京区)で、この世を去りました。享年は57歳。亡骸は甲斐国に移送され、「恵林寺」(えりんじ:山梨県甲州市)に墓所が置かれています。
柳沢吉保がこれほどまでに躍進したのは、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の寵愛を受けていたためと言われています。徳川綱吉は男色家として知られており、江戸城に「桐之間」(きりのま)を設けて、美貌の能役者、武家の子弟などを寝泊まりさせていたとされています。それらの美少年は「桐之間御番」(きりのまごばん)と呼ばれ、柳沢吉保もその1人でした。
なお、柳沢吉保の人柄はいたって穏やか。一説には、徳川綱吉にすり寄る策略家という風評もあるものの、政治上で目立った功績、施策を残していないことを考慮すると、誠実で真面目な性格であったようです。
ただ、政治の才能に乏しかった柳沢吉保ですが、甲府の領民には慕われており、学問と教養に精通していました。儒学者「荻生徂徠」(おぎゅうそらい)をはじめ、有識者を召し抱え、詩歌もたしなんでいたことが分かっています。