「吉野作造」(よしのさくぞう)は、大正時代の政治学者及び思想家です。宮城県に生まれ、仙台市の「第2高等学校」(現在の東北大学の前身)法科を卒業すると上京し、「東京帝国大学」(現在の東京大学の前身)法科大学へ入学。ここで日本初の政治学者であり、のちに東京帝国大学の総長となる「小野塚喜平次」(おのづかきへいじ)の講義を聴講し、大きな影響を受けます。東京帝国大学を卒業後は大学院へ進み、同時に東京帝国大学工科大学講師に就任。その後は中華民国(清を廃して成立した新政権)で教師を、また欧米へ留学するなど海外生活を送り、社会を動かすには何が必要かを体感します。帰国後は東京帝国大学で教鞭を執りつつ、「民本主義」(政策の決定は国民の意向に従うべきとする政治思想)を説き、「大正デモクラシー」(政治、文化、経済における民本主義の発展)の代表的人物となっていきました。日本の民主主義の礎を作った吉野作造の思想を、逸話を交えて紹介します。
「吉野作造」(よしのさくぞう)は、1878年(明治11年)に宮城県志田郡(現在の宮城県大崎市)で、糸と綿を取り扱う商店「吉野家」の長男として誕生。1884年(明治17年)に、「古川尋常小学校」(現在の古川第一小学校)へ入学。
初めて読んだ漢文の書物は水戸藩(みとはん:現在の茨城県水戸市)の藩士によって書かれた「皇朝史略」(こうちょうしりゃく)で、姉から読み方を教わりながら読破しました。
1892年(明治25年)には、「宮城県尋常中学校」(現在の仙台第一高等学校)が開校し14歳で入学します。
宮城県尋常中学校の校長「大槻文彦」(おおつきふみひこ:国語学者)による、「林子平」(はやししへい:江戸時代後期の経世論家)の伝記についての講義に感銘を受け、雑誌「青年文」に「林子平の逸事」という題で投稿し、林子平の探究心、行動力、周囲に惑わされない思慮深さなどを紹介。
また学内誌「如蘭会雑誌」でも、林子平についての文章を書くほどで、その講義から非常に大きな刺激を受けたことが分かります。宮城県尋常中学校時代では回覧雑誌の発行に熱中し、「常盤文学」という雑誌を編集するなど、仲間を増やしていきました。
1897年(明治30年)に第2高等学校法科に合格し、キリスト教と出会うことになります。自由と平等を掲げるキリスト教の教えは、その後、吉野作造の思想の基礎となっていくのです。そして、1898年(明治31年)に洗礼を受けてクリスチャンとなり、洗礼名として「ピリポ」を授けられました。
1900年(明治33年)に、東京帝国大学法科大学に入学するため上京。東京帝国大学では、日本初となる政治学講座の教授となった小野塚喜平次の就任時の講義を聴講し、深く影響を受けました。そして1903年(明治36年)に、優秀な成績で東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。優等卒業生に授与される「恩師の銀時計」を授与されました。東京帝国大学卒業後は大学院へ進み、同時に講師にも就任。
そして、1906年(明治39年)に「袁世凱」(えんせいがい:中華民国の政治家)の長男の家庭教師として、妻子を伴って中国大陸へ渡ります。その後も、天津で教師の職に就き、1909年(明治42年)に一度帰国すると東京帝国大学の助教授に昇進。翌1910年(明治43年)には、ヨーロッパに3年間の留学をします。現地で大きく変わろうとしている世界を実感した吉野作造は、社会を動かすためには民衆の力が重要であることを学び帰国するのでした。
帰国後は、引き続き東京帝国大学で教授となり教鞭を執りつつ、国際社会の一員としての日本の姿や民衆運動を肯定する考えを、雑誌に寄稿して自身の考えを主張。1916年(大正5年)には、雑誌「中央公論」で「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という論文を発表し、「民本主義」という言葉を使用して、デモクラシー(民主主義)の必要性を説きました。
そして、この論評は吉野作造の代表作となり「大正デモクラシー」を率先する重要な論客となっていくのです。また、1924年(大正13年)に「明治文化研究会」を様々な分野からメンバーを集めて組織し、「明治文化全集」を刊行。明治文化史研究にも貢献しました。しかし、1933年(昭和8年)に、胸膜炎を患い55歳の若さでこの世を去ります。
「日露戦争」後、増税に苦しめられてきた民衆の不満が高まり、様々な衝突が発生するようになります。民衆は民主主義を求め運動を起こしました。藩閥政権(特定の藩出身者による独占的な政権)からの脱却と、「第1回普通選挙」を実現させる1925年(大正14年)までの政治的発展の過程を「大正デモクラシー」と呼びます。この大正デモクラシーの旗手となったのが吉野作造でした。
吉野作造が掲げた民本主義は、憲政(憲法に則った政治)本来の意義を説き、体系的な理論として提示したものでした。主権が天皇の下にあった「大日本帝国憲法」下で立憲主義への道を開くために、吉野作造はこの民本主義という言葉に実践的な理念を加えて、果敢に取り組んだのです。
大正デモクラシー当時の選挙権は、「日本臣民の男子にして年齢満25歳以上かつ、満1年以上直接国税15円以上を納める者」に制限されていたため、多くの国民は政治に参加できませんでした。
これに対して吉野作造は、政治は国民の幸福のために、国民の意見によって行われなければならないと民本主義論で主張し、普通選挙を求める機運がますます高まります。そして、1924年(大正13年)に成立した「加藤高明」(かとうたかあき)内閣は、拡大した民衆の声に応えて1925年(大正14年)、「普通選挙法」(25歳以上の男子のみ選挙権を持つ法律)を制定しました。このように吉野作造なくして普通選挙法は成立しなかったのです。
なお、「民本主義」を唱えた吉野作造の足跡は、故郷の宮城県にある「吉野作造記念館」(宮城県大崎市)において現在も詳しく知ることができます。