明治時代の重要用語

讒謗律・新聞紙条例 
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「讒謗律・新聞紙条例」(ざんぼうりつ・しんぶんしじょうれい)とは、1875年(明治8年)6月に制定された「讒謗律」と「新聞紙条例」の2つの条例です。讒謗律は、いわゆる言論統制令であり、現在の刑法にある名誉棄損罪のもととなるもの。一方、新聞紙条例は、新聞取締法のことです。この讒謗律・新聞紙条例は、1874年(明治7年)の「民撰議院設立の建白書」(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)以降、急速に高まった自由民権運動のなか、新聞・雑誌も民権をさかんに主張して明治政府を攻撃し始めたことから、制定されました。

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「讒謗律・新聞紙条例」(ざんぼうりつ・しんぶんしじょうれい)とは、1875年(明治8年)6月に制定された「讒謗律」と「新聞紙条例」の2つの条例です。讒謗律は、いわゆる言論統制令であり、現在の刑法にある名誉棄損罪のもととなるもの。一方、新聞紙条例は、新聞取締法のことです。この讒謗律・新聞紙条例は、1874年(明治7年)の「民撰議院設立の建白書」(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)以降、急速に高まった自由民権運動のなか、新聞・雑誌も民権をさかんに主張して明治政府を攻撃し始めたことから、制定されました。

讒謗律・新聞紙条例の背景

自由民権運動の契機となった民撰議院設立の建白書

明治六年の政変」で、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)とともに明治政府を辞職した「板垣退助」(いたがきたいすけ)・「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)・「副島種臣」(そえじまたねおみ)・「江藤新平」(えとうしんぺい)らは、1874年(明治7年)1月12日に、「愛国公党」(あいこくこうとう)という日本最初の政党を結成します。

板垣退助らは愛国公党の結党後、「大久保利通」(おおくぼとしみち)らの明治政府のやり方が専制的で、一部の官僚が政治を行う体制と批判。「国会を開き民意を政治に反映させることが大切である」と、議会の開設を提言した画期的な民撰議院設立の建白書を、1874年(明治7年)1月、当時の立法の諮問機関「左院」(さいん)に提出しました。この「民撰」とは「選挙で選ばれた議員」のことを指します。

署名者は、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・前東京府知事(とうきょうふちじ:東京都知事に相当)「由利公正」(ゆりきみまさ)、前大蔵大丞(おおくらたいじょう:大蔵省の4番目の官職)「岡本健三郎」(おかもとけんざぶろう)、そしてイギリス帰りの知識人で、民撰議院設立の建白書の起草者でもある「古沢滋」(ふるさわしげる)・「小室信夫」(こむろしのぶ)の8名。

この民撰議院設立の建白書は、提出された翌日の1月18日、日刊新聞「日新真事誌」(にっしんしんじし)に特報としていち早く掲載されました。日新真事誌は、イギリス人の「ジョン・ブラック」が1872年(明治5年)に東京で創刊した新聞。この新聞記事により世論も知ることとなり、大きな反響を呼んだのです。

自由民権運動の高まり

自由民権運動の演説会の様子 (「絵入自由新聞」挿絵)

自由民権運動の演説会の様子
(「絵入自由新聞」挿絵)

民撰議院設立の建白書は、結果的に明治政府に受け入れられることなく、終わりました。しかしこれを契機に、国民の参政権を確立することを目指した「自由民権運動」が急速に広まっていきます。

1874年(明治7年)4月、板垣退助は、今度は郷里の土佐国(とさのくに:現在の高知県)で「片岡健吉」(かたおかけんきち)ら同志を集め、「立志社」(りっししゃ)を創設。

これを皮切りに、各地で自由民権・国会開設を唱える政治結社が組織されていきました。さらに、板垣退助達は、各地方の自由民権運動をより大きなものにするため、全国的な政治結社となる「愛国社」を結成しました。

一方、明治政府も「立憲政体」(りっけんせいたい:憲法に基づいて統治されるだけでなく、政治権力も憲法によって制限される政治理念)の確立へと動きます。

「伊藤博文」(いとうひろぶみ)・「井上馨」(いのうえかおる)・大久保利通が大阪で協議を重ね、1875年(明治8年)2月には「木戸孝允」(きどたかよし)・板垣退助も招待され、次第に立憲政体に移行することの確約がなされました。いわゆる「大阪会議」(おおさかかいぎ)です。

これを受け、「台湾出兵」(たいわんしゅっぺい:沖縄漂流民の殺害に対して台湾へ出兵した事件)に反対して明治政府を去っていた木戸孝允とともに、板垣退助も明治政府へ復帰。

そして、1875年(明治8年)4月に左院を廃止し、立法機関として「元老院」(げんろういん)・「地方官会議」(ちほうかんかいぎ)を、将来の「上院」(じょういん:現在の衆議院に相当)・「下院」(かいん:現在の参議院に相当)の基礎とするために設立。また、司法の最高機関として「大審院」(だいしんいん:現在の最高裁判所に相当)を設け、司法独立の一歩とします。

こういった動きのなかで、同時期に、自由民権論を論じた新聞・雑誌が相次いで発刊。これにより自由民権運動は大きなうねりとなって全国各地で激しさを増していったのです。

讒謗律・新聞紙条例の影響

政府批判の阻止が裏目に

民間では、新聞・雑誌を舞台として論争が大いに盛り上がりました。それを象徴する雑誌に「評論新聞」(ひょうろんしんぶん)があります。

1875年(明治8年)3月に創刊された評論新聞は、前年の1874年(明治7年)に発刊され、学術的な記事により世を啓蒙した「明六雑誌」(めいろくざっし)と同じく小型の機関紙で、不定期に刊行されました。

この評論新聞の特徴は、一般的な情報を提供する新聞ではなく、「評」・「論」の掲載に特化した新聞だったことです。紙面の多くは、読者からの投書で、同一紙面に複数の意見を並列するというユニークな編集方針が採られました。いわば、公平な立場に立ち、明治政府に対して賛成・反対など様々な意見を掲載しているところに、この評論新聞の良さがあった訳ですが、創刊からわずか3ヵ月後にその大きな特徴が消えてしまいます。

その原因となったのが、1875年(明治8年)6月に明治政府が制定した、言論統制である讒謗律・新聞紙条例。これに加えて出版条例の改正も行われると、評論新聞の編集責任者が交代。その後は、大久保利通率いる事実上の「大久保政権」への攻撃に専念する新聞となってしまいます。

明治政府は、評論新聞の編集責任者を逮捕して圧力をかけますが、評論新聞の大久保政権批判はかえって加速し、皮肉にもそれにつれて発行部数も伸びていきました。しかし、讒謗律・新聞紙条例があるため、編集責任者は次々と逮捕され、結局は1876年(明治9年)に発禁となります。

また、同時期に近代日本における学術総合雑誌・学会誌の先駆けとなり、明治時代の日本に大きな影響を与えた明六雑誌も、1875年(明治8年)11月、明治政府の言論統制により廃刊しました。

しかし、興味深い逸話もあります。評論新聞の発行部数自体は、それほど多くはなかったのですが、特に鹿児島県で強い人気を誇っていました。そのため、評論新聞を読んだ鹿児島県の人達は、東京にある明治政府は専制政府に違いなく、首都・東京には明治政府に強い不満分子で溢れかえっていると信じていたとされています。

【国立国会図書館ウェブサイトより】

  • 自由民権運動の演説会の様子 「絵入自由新聞」挿絵

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