源頼朝が開いた日本初の武家政権「鎌倉幕府」。源頼朝が将軍だった頃は将軍の独裁体制でしたが、源頼朝の死後、将軍の権威はなくなっていき、北条氏が政治の中心になりました。鎌倉幕府2代将軍・源頼家は実質的に権力を13人の御家人に奪われ、3代将軍・源実朝の頃には北条氏が執権となり、政治の実権を握ります。また、4代将軍・藤原頼経からは源氏の嫡流でもなくなりました。
「鎌倉9代将軍一覧」では、初代将軍・源頼朝から9代将軍・守邦親王まで、鎌倉幕府の将軍を一覧でご紹介。気になる将軍をクリックすると、その将軍の人生やエピソード、当時の時代背景などがご覧頂けます。教科書にないようなことまで網羅しているので、鎌倉時代を掘り下げたい方におすすめです。



初代将軍/源頼朝

日本で初めて武家による政権を打ち立てた源頼朝(みなもとのよりとも)ですが、もともと「源」姓は天皇の子供達が皇族を離れるときに下賜(かし:天皇からいただくこと)された姓でした。「平」姓も同じで、どちらもルーツをたどれば皇族です。源頼朝も最初から武士だったわけではなく、少年…

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2代将軍/源頼家

鎌倉幕府における9人の将軍の中で、「源頼家」(みなもとのよりいえ)はある意味で最も悲運な将軍です。父「源頼朝」(みなもとのよりとも)が急死したとき、源頼家はまだ18歳の若者。18歳は立派な大人とは言え、苦節の時代を乗り越えた父と違い、苦労知らずで育ってきた源頼家にいきな…

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3代将軍/源実朝

「源実朝」(みなもとのさねとも)は鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の子で、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の弟。兄である源頼家は父に倣って政治にかかわろうとして北条氏に殺されました。兄の殺害現場にいた源実朝は、決して政治にかかわろうとはしませんで…

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4代将軍/藤原頼経

「藤原頼経」(ふじわらよりつね)は、3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府における最大の権威者)として迎えられました。しかし当時はまだ2歳で、政治を行う能力はゼロ。つまりお飾りに過ぎなかったのです。一方、御家…

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5代将軍/藤原頼嗣

鎌倉幕府5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)は、先代の「藤原頼経」(ふじわらよりつね)の子。先代が都で生まれたのに対し、藤原頼嗣は純粋に鎌倉生まれの鎌倉育ち。6歳で元服(げんぷく:成人になったことを示す儀式)し、5代将軍となります。年齢が幼く、また将軍在任期間も8年…

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6代将軍/宗尊親王

鎌倉幕府の6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)は88代「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう)の子。朝廷から皇族を将軍として迎えることは、鎌倉幕府誕生の立役者である「北条時政」(ほうじょうときまさ:源頼朝[みなもとのよりとも]の義父)の時代からの念願でした。源氏の将軍が3代…

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7代将軍/惟康親王

鎌倉幕府の「惟康親王」(これやすしんのう)は6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)の子。将軍就任時はわずか3歳ですから政治能力はありません。これは当時の幕府で政権を握っていた北条氏の戦略で、自らは将軍にならず、「執権」(しっけん:将軍をサポートする役割。実質上の幕府の…

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8代将軍/久明親王

「久明親王」(ひさあきしんのう)は、初代将軍「源頼朝」亡きあとに鎌倉幕府を支配した北条氏によって擁立された8代目の鎌倉将軍です。北条氏は、自らは将軍にならず、幼い将軍を擁立し、自分達は「執権」(しっけん:将軍を補佐する役職)として幕府を思い通りに動かし続けてきました。し…

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9代将軍/守邦親王

9代鎌倉将軍「守邦親王」(もりくにしんのう)は8代「久明親王」(ひさあきしんのう)の子。守邦親王が在位した期間は、鎌倉幕府が滅亡に向かって突き進んでいた時期でした。鎌倉の幕府内では北条氏の力が衰えるにしたがって「御家人」(ごけにん:幕府から領地の所有を保証される代わりに…

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鎌倉時代年表

西暦(和暦) 出来事
1185年(元暦2年/
文治元年)
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平家が滅亡。
源頼朝が諸国に守護・地頭を設置する。
1189年(文治5年)
鎌倉政権と奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の間で奥州合戦が勃発。源頼朝が藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討ち、奥州藤原氏が滅亡する。
1192年(建久3年)
源頼朝が征夷大将軍に就任する。
1199年(建久10年/
正治元年)
1月、源頼朝が亡くなり、嫡男の源頼家(みなもとのよりいえ)が家督を継承。2代将軍の座に就く。
一説には、源頼朝の死因は落馬と言われているが、真相は定かにはなっていない。
1203年(建仁3年)
比企能員の変(ひきよしかずのへん)により源頼家が幽閉されたため、源実朝(みなもとのさねとも)が3代将軍に就任する。
北条時政(ほうじょうときまさ)が、鎌倉幕府初代執権に就任する。
1204年(建仁4年/
元久元年)
源頼家が、修禅寺(しゅぜんじ:静岡県伊豆市)で北条氏の手兵により殺害される。
1205年(元久2年)
北条時政が、平賀朝雅(ひらがともまさ)の将軍擁立に失敗し、出家する(牧氏の変/牧氏事件)。
北条義時(ほうじょうよしとき)が2代執権に就任する。
1219年(建保7年/
承久元年)
源実朝が源頼家の子・公暁(くぎょう/こうきょう)に暗殺される。
1221年(承久3年)
5月、鎌倉幕府と後鳥羽上皇の間で承久の乱が勃発。幕府軍が勝利する。6月、朝廷を監視するため、京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)が設置される。7月、後鳥羽上皇が隠岐に配流される。
1224年(貞応3年/
元仁元年)
北条泰時(ほうじょうやすとき)が3代執権に就任する。
1225年(元仁2年/
嘉禄元年)
源頼朝の正室・北条政子が亡くなる。
1232年(寛喜4年/
貞永元年)
北条泰時により、御成敗式目(貞永式目)が制定される。
1246年(寛元4年)
北条時頼(ほうじょうときより)が5代執権に就任。
1268年(文永5年)
北条時宗(ほうじょうときむね)が8代執権に就任。
1274年(文永11年)
モンゴル帝国(元)の軍勢が、日本へ襲来。博多付近へ上陸するも、暴風のために敗退する(文永の役)。
1281年(弘安4年)
元軍が再度来襲するが、幕府軍がほとんど全滅させる(弘安の役)。1度目と合わせて「元寇」(げんこう)と呼ばれる。
1297年(永仁5年)
9代執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)により、永仁の徳政令が発される。
1318年(文保2年)
後醍醐天皇が即位する。
1321年(元応3年/
元亨元年)
後醍醐天皇によって院政が廃止され、親政が開始される。
1324年(元亨4年/
正中元年)
後醍醐天皇の倒幕計画が事前に発覚する(正中の変)。
1331年(元徳3年/
元弘元年)
後醍醐天皇が倒幕を再度計画し、楠木正成(くすのきまさしげ)が挙兵(元弘の乱)。
幕府が光厳天皇(こうごんてんのう)を擁立する。
1332年(元徳4年/
元弘2年)
後醍醐天皇が隠岐に配流される。
1333年(正慶2年/
元弘3年)
2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出する。
5月、足利尊氏(あしかがたかうじ)が六波羅探題を、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻略。これらにより鎌倉幕府が滅亡する。

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「鎌倉9代将軍一覧」では、鎌倉幕府の将軍を一覧にしました。初代将軍・源頼朝はもちろん、政治の実権を握る執権・北条氏の陰に隠れていた源実朝や宗尊親王などについても詳しく解説しています。
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