2021年 全国の行ってみたい古戦場ランキングは、刀剣ワールドで紹介している古戦場を口コミと合わせて、TOP20のランキング形式(一覧)でご覧頂けます。教科書に載っているような戦いがあった古戦場がランキングに掲載されていたり、大河ドラマで話題となった古戦場がランクインされていたりするなど、全国にある人気の高い古戦場を一覧でご紹介。人気の高い古戦場巡りをしたいという方には、全国の行ってみたい古戦場ランキングが特におすすめです。
「本能寺の変」は、1582年(天正10年)6月2日、京都の「本能寺」に宿泊していた「織田信長」を、家臣であった「明智光秀」が謀反を起こし、襲撃した事件です。明智光秀が率いる13,000の軍勢に寺を包囲された織田信長は、自ら寺に火を放ち自害。天下統一を目前に控えていた織田信長の死によって、歴史が大きく変わることとなりました。
大河ドラマの舞台「本能寺」にお邪魔しました。まず目を見張ったのは、本堂に向かってすぐの場所に、七塔頭が並んでいること!時期によっては行列ができるかもしれませんが、御首題と御朱印がいただけます。さらに進んだところには織田信長公廟が!この石塔の下には信長公が使用した刀が眠っているそうで、なんとも感慨深いですね。
lesabelさん
「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)は、1560年(永禄3年)に尾張国(現在の愛知県)の桶狭間で、尾張国主「織田信長」と、駿河・遠江・三河を領国する「今川義元」との間で起こった合戦です。この合戦で、兵士の数では圧倒的に劣勢だった織田信長が勝利。「甲相駿三国同盟」の一角だった今川義元が討死したことで、戦国大名のパワーバランスが大きく変化。織田信長は、この戦いの勝利で天下取りへと躍進するきっかけをつかみました。
大河ドラマ「麒麟がくる」で放送された「決戦!桶狭間」が最高すぎて、これはもう行くしかないと思い先日訪れてきました。
「桶狭間古戦場公園」は名古屋市緑区桶狭間の「幕山」という交差点の近くにあります。この一帯が1560年(永禄3年)に起きた「桶狭間の戦い」の場所だそうです。
濃い茶さん
「関ケ原の戦い」は、1600年(慶長5年)、美濃国不破郡関ケ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で、「徳川家康」率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)・「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍が戦った合戦です。わずか6時間ほどで決着したと言われていますが、この合戦は「天下分け目の戦い」とも呼ばれており、見事勝利した徳川家康は、その後天下統一を果たしました。関ケ原の戦いは、長く続いた戦国時代に終止符を打った戦いなのです。
関ケ原メモリアルの愛称で親しまれている「岐阜関ケ原古戦場記念館」は、大迫力の2つのシアター(グラウンド・ビジョン、体験型シアター)や、関ヶ原の戦いに参戦した武将ゆかりの武具や絵巻などの展示物。幅広い世代が楽しめる「戦国体験コーナー」があり、関ヶ原の戦いに詳しくない方でも十分楽しめる記念館です。
つなきちさん
「長篠の戦い」は、1575年(天正3年)に起こった「織田信長・徳川家康連合軍」と、「武田勝頼」(たけだかつより)率いる武田軍との間で起こった合戦です。この合戦で勝利を収めた織田信長の勢いは、これ以降さらに増すこととなりました。強大な騎馬隊を有する武田軍を、「馬防柵」と「鉄砲隊」で撃破した長篠の戦いは、これ以後の日本の兵法に大きな影響を与えました。
武田軍と織田・徳川軍が戦ったことで有名な「長篠の戦い」について調べたくて、寄ってきました。「長篠城址史跡保存館」は愛知県新城市長篠にあります。長篠城の城跡に建てられたこの保存館には、長篠城や長篠の戦いに関する資料がたくさん展示されていました。
U9536さん
「大坂冬の陣・夏の陣」は、「関ヶ原の戦い」の勝利によって江戸幕府の征夷大将軍となり、天下の覇権を握った「徳川家康」が、大坂城(のちの大阪城)を拠点とする豊臣家(豊臣秀頼[とよとみひでより])を滅ぼした戦いです。1614年(慶長19年)の戦いを「大坂冬の陣」、1615年(元和元年)に再開された戦いを「大坂夏の陣」と言い、2回の合戦を合わせて「大坂の役」、または「大坂の陣」と呼びます。この戦いによって、栄華を誇った豊臣家は滅亡し、徳川家康・「徳川秀忠」らによって、約260年にわたる天下泰平の世を迎えることとなりました。
この秀吉の大阪城は大阪冬の陣の後に徳川方との和議の条件として本丸以外の建物は壊され堀も内堀以外は埋められてしまっています。今現在残っている大阪城の石垣などは大阪の陣後に徳川秀忠によって再び築かれた大阪城になります。
げぎょさん
「比叡山焼き討ち」(ひえいざんやきうち)は、1571年(元亀2年)9月12日、「織田信長」と敵対していた北近江(現在の滋賀県)の「浅井長政」(あざいながまさ)と越前国(現在の福井県越前市)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)が、「比叡山延暦寺」(現在の滋賀県大津市)に逃げ込んだことをきっかけに、焼き討ちにした戦いです。この戦いで、織田信長が勝利しましたが、延暦寺の僧侶をはじめ、老若男女問わず3,000~4,000名が殺戮されるという凄惨な結末となりました。
比叡山延暦寺という言葉は何度も耳にしていましたが、実際に訪れたのは家族全員初めてのことでした。最初は、延暦寺という一つのお寺が存在するものだと思っていましたが、実際はそうではなく、比叡山の中にある100近くのお寺やお堂の総称とのこと。
そたっちさん
「山崎の戦い」は、1582年(天正10年)6月13日、「本能寺の変」を受け、備中高松城の攻防戦から引き返した「羽柴秀吉」(のちの「豊臣秀吉」)と、「織田信長」を討った「明智光秀」が、山崎(現在の京都府長岡京市)で激突した合戦です。山崎にあった「天王山」が戦の要だったことから、別名「天王山の戦い」とも呼ばれています。この天下分け目の戦いは、1日のうちに勝敗が決し、羽柴秀吉が勝利。織田信長の後継者となった羽柴秀吉は、天下統一へと乗り出すことになりました。
宝積寺は、1582年(天正10年)羽柴秀吉と明智光秀が戦った「山崎の戦い」(天王山の戦い)の舞台になったことでも有名です。
敷地は広く、立派な本堂の他にも閻魔堂、三重塔があります。なかでも本堂の脇にある小石は「出世石」と呼ばれ、山崎の戦いの際に秀吉が腰かけたそうです(出世を願うためにお祈りしてきました!)
R4092さん
「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)は、1185年(寿永4年/元暦2年)3月24日、長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行なわれた「治承・永寿の乱」、いわゆる「源平合戦」における最後の戦いです。この戦いで、平氏が擁立した「安徳天皇」(あんとくてんのう)が入水し、「源義経」率いる源氏が勝利しました。平家一門は捕らえられ、これまで栄華を誇った平氏は滅亡。長きに亘った治承・永寿の乱は、ついに幕を閉じたのです。
壇ノ浦といえば、源氏と平家の最期の戦い「壇ノ浦の戦い」の舞台で、下関の関門海峡のすぐ真下にあります。この壇ノ浦古戦場の前にある「みもすそ川公園」には、八艘跳びをする源義経像と錨を担ぐ平知盛像が対峙。迫力ある銅像は圧巻の一言です!
この場所で1185年(寿永4年)源平合戦があったと思うと、鳥肌が立ちます!
J9765さん
江戸時代初期の1637年(寛永14年)~1638年(寛永15年)にかけて、九州西部で日本史上最大とも言われる一揆「島原の乱」(しまばらのらん)が勃発しました。藩主による重税や、キリスト教徒の迫害、飢饉などが重なり困窮した領民が、キリシタン(カトリック教徒)を中心に蜂起したのです。鎮圧に4ヵ月も要した島原の乱は、江戸幕府が諸外国との航行や貿易を厳しく制限する「鎖国政策」(さこくせいさく)へ突き進む要因のひとつになりました。
眼下に有明海の広がる絶好のロケーションで、当時の面影を残す敷地の土盛りなどが緑に覆われているのを見ると、なんとも言えない趣を感じることができます。信仰の自由のため戦った人々に思いを馳せながらこの地に立つことで、自分自身の日々の過ごし方にも考えさせられる部分があるように感じました。
たぐぅさん
「川中島の戦い」は、1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)にかけて、甲斐国(現在の山梨県)主である「武田信玄」と、越後国(現在の新潟県)主である「上杉謙信」との間で、北信濃国(現在の長野県北部)の領有権をめぐり5度対戦した合戦の総称です。5度の合戦の中で激戦となった4回目の合戦が、千曲川と犀川が合流する「川中島」で行なわれたことから、川中島の戦いと呼ばれています。両軍とも多数の戦死者を出しましたが、決着はつきませんでした。
武田本陣跡とされる場所には八幡社が祀られており、古戦場の名碑や上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの場面の銅像があります。公園内を歩いてみると、かつて大規模な合戦があったとは思えないのどかな雰囲気です。
Beta1さん
「小牧・長久手の戦い」は、1584年(天正12年)に「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)対「織田信雄・徳川家康連合軍」の間で行なわれた合戦です。小牧・長久手の戦いは、合戦自体は徳川家康が勝利を収めたものの、戦略的観点から見ると羽柴秀吉が勝利したという歴史上でも非常に珍しく、天下統一への足掛かりとなった戦略が見られる合戦。
小牧市の中心市街地にある小牧山城に行って来ました。歴史資料館的に作られたもので、当時のお城とはちがいますが、小牧山自体に歴史的に価値のある石垣や基礎に使われていた石が当時のまま残されて、今もまだ発掘が続けられています。
新作八郎さん
「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)とは、1868年(慶応4年/明治元年)1月、「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに、15代将軍「徳川慶喜」を擁する「旧幕府軍」と、薩摩藩・長州藩を中心とする「新政府軍」で争われた一連の戦争のことです。戊辰戦争は、鳥羽・伏見の戦いから始まり、「江戸城無血開城」、「上野戦争」、「長岡城の戦い」、「会津戦争」と1年以上続き、1869年(明治2年)の「箱館戦争」(五稜郭の戦い)にて終結しました。この終結により、国内は新政府によって統一され、新しい時代が始まることになるのです。なお、戊辰戦争という名称は、鳥羽・伏見の戦いが起こった年の干支が「戊辰」の年だったことに由来しています。
福島県会津若松市にあるお城をご存じですか? 戊辰戦争により旧幕府軍と新政府軍の決戦場の舞台となった、歴史あるお城なのです。なので、福島の方々が鶴ヶ城をイメージすると、つながるキーワードがあります。それは白虎隊ですね。
U-tanさん
「金ヶ崎の戦い」(かねがさきのたたかい)は、1570年(元亀元年)に越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市金ヶ崎町)で、「織田信長」と「徳川家康」率いる織田・徳川連合軍と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の間に起こった合戦であり、織田・徳川連合軍が窮地に陥った戦です。この戦いに向けて約3万の軍勢を集め、約4,500の朝倉軍と相対していた織田・徳川連合軍にとっては、まさに青天の霹靂。また、織田信長が危機的状況下で行なった撤退戦でもあることから、「金ヶ崎の退き口」、及び「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれている戦です。
このお城で最も有名なのが「金ヶ崎の退き口」と呼ばれるものです。あの織田信長が当時ここを治めていた朝倉氏と戦っている時に、義理の弟の裏切りに合って挟み撃ちになりかけて命からがら撤退したという舞台なのです。
V5356さん
「忍城の戦い」(おしじょうのたたかい)は、1590年(天正18年)、「豊臣秀吉」が北条氏を討伐するため、豊臣秀吉の家臣であった「石田三成」らに命じ、北条氏の支城「忍城」を水攻めにした戦いです。石田三成を総大将とし、軍師「長束正家」、名将「大谷吉継」、「真田昌幸」、「直江兼続」など、錚々たる武将が名を連ね、総勢2~5万人の大軍勢で戦ったにもかかわらず、最後まで陥落させることができなかった城です。このことから、「難攻不落の城」とも言われています。
豊臣秀吉の北条攻めの際、当時の城代であった成田泰季以下三千五百ほどの兵のみで籠城をし、石田三成・大谷吉継・増田長盛など名だたる豊臣方武将の率いる二万を超える軍勢相手に激しい攻防戦を繰り広げ、かつ石田三成による水計にも耐え、北条氏が降伏するまで陥落しなかったという逸話は近年、映画「のぼうの城」でも題材にされ、多くの人の心を惹きつけました。
たぐぅさん
「上田合戦」は、「真田昌幸」(さなだまさゆき)が築城した信濃国の「上田城」(現在の長野県上田市)周辺を舞台に、徳川氏、北条氏、真田氏の三家が旧武田領を巡って争った戦いです。1585年(天正13年)に「第一次上田合戦」(神川合戦)、1600年(慶長5年)に「第二次上田合戦」が起こり、真田家が徳川家の大軍を2度にわたって破った合戦として有名です。
上田城は、あの有名な赤揃えの「日ノ本一の兵(つわもの)」真田幸村の父、真田昌幸によって天正11年に築城。当時もっとも勢いのあった徳川の軍勢を2度にわたって寄せ付けず敗走させています。城自体は小田原城などとちがい、それほど堅牢ではないので、いかに真田家が戦上手だったかが伺えます。
アルファさん
「鳥取城の戦い」は、1581年(天正9年)、「鳥取城」(現在の鳥取県鳥取市)を舞台に、「織田信長」に「中国攻め」を命じられた「羽柴秀吉」(のちの「豊臣秀吉」)が、毛利方の「吉川経家」(きっかわつねいえ)を「兵糧攻め」にした戦いです。これによって、羽柴秀吉が勝利し、吉川経家は自害。その兵糧攻めがあまりにも凄惨だったことから、「鳥取の渇え殺し」(とっとりのかつえごろし)と呼ばれており、「三木の干殺し」、「高松城の水攻め」と併せて、「秀吉三大城攻め」とも言われています。
鳥取市鳥取県庁近くにある鳥取城跡、歴史を感じられる当時の石垣が残っています。戦国時代鳥取がどのような土地であったか、数々の戦いがどのような戦いだったかが勉強できます。
くれよんさん
「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「岐阜城の戦い」は、1600年(慶長5年)、岐阜城を舞台に、西軍に属した「織田信長」の孫「織田秀信」(おだひでのぶ)が、東軍に属した「福島正則」(ふくしままさのり)と「池田輝政」(いけだてるまさ)に攻め落とされた戦いです。
NHKの大河ドラマで放送中の「麒麟がくる」の序盤の舞台となっている岐阜城に行ってきました。かつては稲葉山城とも呼ばれ「美濃のマムシ」こと斎藤道三や戦国三英傑のひとり織田信長も住んだ城としても有名ですね。
RIVERさん
「小田原の役」(小田原征伐)は、1590年(天正18年)に、「豊臣秀吉」が小田原城に籠城する北条氏を征伐し、天下統一を果たした一連の戦いのことです。小田原の役は、様々な別名があり、「小田原合戦」、「小田原の攻め」、「北条征伐」、「小田原の戦い」、「小田原の陣」などと呼ばれています。
お城の中は、博物館のような造りとなっています。 展示内容は、写真やパネル展示が多くあり、小田原城の歴史をじっくりと知ることができました。駅から小田原城に行く迄の間に、忍者コーナーがあるので、お子さん達も楽しめます。
AAAさん
1600年(慶長5年)に起こった「白石城の戦い」(しろいしじょうのたたかい)は、五大老筆頭の「徳川家康」が天下を取るため、東北地方の大きな勢力であった「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)を抑え込むという目的で、縁戚関係を結んでいた「伊達政宗」に討伐を命じ、かつて伊達家の領地だった「白石城」(現在の宮城県白石市)を取り戻した戦いです。
間近にそびえ立つ白石城を見ると白壁がより綺麗で美しい城だなと思いました。天守閣の中は太い柱が何本もあり、梁も大きく頑丈にできているのがわかります。1階には鎧兜が飾ってあり、伊達政宗と忠臣の片倉小十郎のエピソードが記載されたパネルがあったりと白石城について興味深いコーナーも設けられています。
Lilyさん
「備中高松城の水攻め」とは、近畿地方の平定に成功した「織田信長」が、中国地方攻略による天下統一を狙い、1582年(天正10年)、羽柴秀吉(のちの「豊臣秀吉」)に命じ、難攻不落と言われた「備中高松城」を、「水攻め」という奇策で攻略した戦いです。この備中高松城の水攻めは、「三木の干殺し」、「鳥取の飢え殺し」と合わせて、「秀吉三大城攻め」とも呼ばれています。
高松城跡は岡山県北区高松にあります。豊臣秀吉の家臣・黒田官兵衛による「水攻め」にあったお城なんですね。かつて、毛利氏の要塞だった高松城は低湿地を利用した平城で、城の周りは沼だったそうです。そのため、鉄砲戦でも騎馬戦でも攻め落とせない「難攻不落の城」だったとか。でも、その利点を逆手に取ったのが、毛利勢と敵対する豊臣秀吉!
うしさん