「2020年 全国の行ってみたい古戦場ランキング」では、実際に訪れた人の声を集めてランキング形式で古戦場をご紹介。「桶狭間の戦い」、「大坂冬の陣・夏の陣」、「川中島の戦い」など、有名な戦いの古戦場が多数ランクインしています。
また、古戦場ランキングでは、戦いの概要や現在の様子などに加え、古戦場に関する口コミも掲載しています。古戦場を訪れる前に、ぜひチェックしてみて下さい!
「大坂冬の陣・夏の陣」は、「関ヶ原の戦い」の勝利によって江戸幕府の征夷大将軍となり、天下の覇権を握った「徳川家康」が、大坂城(のちの大阪城)を拠点とする豊臣家(豊臣秀頼[とよとみひでより])を滅ぼした戦いです。1614年(慶長19年)の戦いを「大坂冬の陣」、1615年(元和元年)に再開された戦いを「大坂夏の陣」と言い、2回の合戦を合わせて「大坂の役」、または「大坂の陣」と呼びます。この戦いによって、栄華を誇った豊臣家は滅亡し、徳川家康・「徳川秀忠」らによって、約260年にわたる天下泰平の世を迎えることとなりました。
大阪府にある広大な敷地にあるお城になります。 日本100名城にも選ばれるなど、言わずと知れたお城の中でも知られているお城になります。 戦国最後の大きな戦である、夏の陣、冬の陣で豊臣氏最後の地でもありますね。 現在の栄えているのも見ると想像もつかないですよね。
matsuさん
「小田原の役」(小田原征伐)は、1590年(天正18年)に、「豊臣秀吉」が小田原城に籠城する北条氏を征伐し、天下統一を果たした一連の戦いのことです。小田原の役は、様々な別名があり、「小田原合戦」、「小田原の攻め」、「北条征伐」、「小田原の戦い」、「小田原の陣」などと呼ばれています。
小田原城は、神奈川県小田原市に戦国時代から江戸時代にかけて存在したお城です。 後北条氏の本拠地として有名で、北条氏康が治めていたころは、難攻不落の城といわれ戦上手の上杉謙信や武田信玄の猛攻に耐え、守り切ったことで有名です。
スラッシーさん
「関ケ原の戦い」は、1600年(慶長5年)、美濃国不破郡関ケ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で、「徳川家康」率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)・「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍が戦った合戦です。わずか6時間ほどで決着したと言われていますが、この合戦は「天下分け目の戦い」とも呼ばれており、見事勝利した徳川家康は、その後天下統一を果たしました。関ケ原の戦いは、長く続いた戦国時代に終止符を打った戦いなのです。
関ケ原の合戦の史跡めぐりをしてきました。決戦地は石田三成の陣跡や
笹尾山交流館などが近い位置にあります。光成率いる西軍は総兵力では東軍を上回っていましたが、開戦時から積極的に戦っていたのは石田三成、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継らごく一部だったとのこと。西軍に付きながら事前に東軍へ内通していた松尾山の小早川秀秋去就を決めかねて戦況を傍観。東軍の黒田長政らの猛攻を幾度も押し返した石田三成隊をはじめ正午頃までは西軍は善戦していました。しかし秀秋が寝返りを決意し、迎撃した大谷吉継隊は善戦むなしく壊滅。西軍は総崩れとなります。その時、この決戦地一帯は最後に残った石田隊、島津隊に押し寄せる東軍で埋め尽くされていたと考えられます。東軍の最後の一押しに石田隊もついに壊滅。島津隊は家康の本陣を横切り中央突破して戦いは終わります。光成は伊吹山山中の洞窟へ逃亡。天下分け目の戦いと言われる国内最大級の戦いはわずか半日程度でその幕を閉じたといわれています。
ヨータローさん
「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「岐阜城の戦い」は、1600年(慶長5年)、岐阜城を舞台に、西軍に属した「織田信長」の孫「織田秀信」(おだひでのぶ)が、東軍に属した「福島正則」(ふくしままさのり)と「池田輝政」(いけだてるまさ)に攻め落とされた戦いです。
斎藤道三から織田信長に城主が変わっていった歴史のある名城です。 岐阜城と呼ばれる前は井口城と呼ばれていました。 標高約300mの頂上にあり、ロープウェイか複数ある登山道を上っていくことができます。 戦国時代の難攻不落の城で、美濃から尾張を見渡すことができます、織田信長の天下統一の野望を感じることができるエリアです。 平時から天守閣に住居するお殿様はこの織田信長だけだったと言われています。
Zousanさん
「比叡山焼き討ち」(ひえいざんやきうち)は、1571年(元亀2年)9月12日、「織田信長」と敵対していた北近江(現在の滋賀県)の「浅井長政」(あざいながまさ)と越前国(現在の福井県越前市)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)が、「比叡山延暦寺」(現在の滋賀県大津市)に逃げ込んだことをきっかけに、焼き討ちにした戦いです。この戦いで、織田信長が勝利しましたが、延暦寺の僧侶をはじめ、老若男女問わず3,000~4,000名が殺戮されるという凄惨な結末となりました。
境内はかなり広く散策しながらお堂を回ることができます。織田信長の焼き討ちの時の遺構はほとんどなく、一度すべて消失したとは思えないほど。ちなみに不滅の法火は山形県の立石寺に分灯されていたそうで、本当に1200年の間絶えることなく続いているそうです。個人的には神秘的な炎に感じられました。
y.tetsuyaさん
「上田合戦」は、「真田昌幸」(さなだまさゆき)が築城した信濃国の「上田城」(現在の長野県上田市)周辺を舞台に、徳川氏、北条氏、真田氏の三家が旧武田領を巡って争った戦いです。1585年(天正13年)に「第一次上田合戦」(神川合戦)、1600年(慶長5年)に「第二次上田合戦」が起こり、真田家が徳川家の大軍を2度にわたって破った合戦として有名です。
長野県上田市にあるお城にて戦国武将の真田昌幸により築城され徳川軍の攻撃を退けた難攻不落のお城として有名です。
敷地内には眞田神社、上田市立博物館があり歴史を感じられます。
R5218さん
「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)とは、1868年(慶応4年/明治元年)1月、「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに、15代将軍「徳川慶喜」を擁する「旧幕府軍」と、薩摩藩・長州藩を中心とする「新政府軍」で争われた一連の戦争のことです。戊辰戦争は、鳥羽・伏見の戦いから始まり、「江戸城無血開城」、「上野戦争」、「長岡城の戦い」、「会津戦争」と1年以上続き、1869年(明治2年)の「箱館戦争」(五稜郭の戦い)にて終結しました。この終結により、国内は新政府によって統一され、新しい時代が始まることになるのです。なお、戊辰戦争という名称は、鳥羽・伏見の戦いが起こった年の干支が「戊辰」の年だったことに由来しています。
会津若松城は、徳川家光の義理の兄弟である保科正之が入城後、生粋の徳川親派を貫いたことで戊辰戦争では激戦地になり、悲劇を招いてしまったお城です。今では立派な再建天守が建っていますが、古写真を見ると城には無数の弾痕があります。
castle fanさん
「本能寺の変」は、1582年(天正10年)6月2日、京都の「本能寺」に宿泊していた「織田信長」を、家臣であった「明智光秀」が謀反を起こし、襲撃した事件です。明智光秀が率いる13,000の軍勢に寺を包囲された織田信長は、自ら寺に火を放ち自害。天下統一を目前に控えていた織田信長の死によって、歴史が大きく変わることとなりました。
中京区寺町通にある本能寺は日蓮大聖人の教えを弘める法華宗本門宗本門流の大本山です。 最寄りは地下鉄東西線の市役所駅前を降りたら目の前にあります。 本能寺といえば、織田信長公が家臣である明智光秀の謀反によって急襲されたことで、寺に火を放ち自害して果てたといわれる”本能寺の変”で歴史の教科書に載っていて記憶に残るお寺のひとつです。 現在の本堂は、豊臣秀吉が本能寺の変のあとに再建したそうで、もともとは堀川四条の近くに建っていたそうです。 本能寺は文化財としても価値が高いものが多く、伝藤原行成筆書巻(本能寺切)は国宝で、11世紀の古筆の遺品で小野篁、菅原道真、紀長谷雄の3名の漢文を和洋書法で書いた調度手本です。 本堂・表門・信長公御廟所拝殿も登録有形文化財に指定されています。 大賓殿宝物館には梅樹雉雀文様銅鏡や五彩龍鳳花卉文大瓶「大明万暦年製」景徳鎮窯といった重要文化財や香炉「三足の蛙」や麒麟の香炉が展示されていて、有料ですが、一見の価値があります。 京都に立ち寄ったなら見学したいお寺のひとつです。
Z1010さん
1600年(慶長5年)に起こった「白石城の戦い」(しろいしじょうのたたかい)は、五大老筆頭の「徳川家康」が天下を取るため、東北地方の大きな勢力であった「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)を抑え込むという目的で、縁戚関係を結んでいた「伊達政宗」に討伐を命じ、かつて伊達家の領地だった「白石城」(現在の宮城県白石市)を取り戻した戦いです。
白石城は宮城県白石市にあるお城です。 伊達政宗の家臣、片倉氏が代々居住したお城としても有名です。 天守閣はありませんが、三階櫓が天守閣の代用として使われていたようです。小さいながら趣があるよいお城だと思います。 桜の時期に行くのがオススメです。桜の花と櫓のコラボレーションが良い雰囲気をだしています。 駅から近いので行き易いのも良いポイントです。
ぐらさんさん
「小牧・長久手の戦い」は、1584年(天正12年)に「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)対「織田信雄・徳川家康連合軍」の間で行なわれた合戦です。小牧・長久手の戦いは、合戦自体は徳川家康が勝利を収めたものの、戦略的観点から見ると羽柴秀吉が勝利したという歴史上でも非常に珍しく、天下統一への足掛かりとなった戦略が見られる合戦。
濃尾平野の中央にそびえる小牧山の山頂に悠然と構える小牧城。その昔、織田信長の居城として建設され、その後秀吉・家康が相対する小牧・長久手の戦いの際、家康軍の本陣として使われました。激動の時代を見てきた小牧山と小牧城。史跡として、小牧市のランドマークとして今も小牧の街を見続けています。
A4015さん
「忍城の戦い」(おしじょうのたたかい)は、1590年(天正18年)、「豊臣秀吉」が北条氏を討伐するため、豊臣秀吉の家臣であった「石田三成」らに命じ、北条氏の支城「忍城」を水攻めにした戦いです。石田三成を総大将とし、軍師「長束正家」、名将「大谷吉継」、「真田昌幸」、「直江兼続」など、錚々たる武将が名を連ね、総勢2~5万人の大軍勢で戦ったにもかかわらず、最後まで陥落させることができなかった城です。このことから、「難攻不落の城」とも言われています。
埼玉県行田市にある「忍城」へ行ってきました。入場料が安いのに整備されていて、きれいなお城でした。上杉謙信や石田三成の時代に、何度も攻められ難攻不落と言われた忍城ですが、当時の雰囲気を今でも感じることが出来ました。館内には、資料館もあり歴史のことが詳細に書かれていて勉強になりました。映画のモデルにもなったみたいで、お勧めのお城です。
たつやさん
「山崎の戦い」は、1582年(天正10年)6月13日、「本能寺の変」を受け、備中高松城の攻防戦から引き返した「羽柴秀吉」(のちの「豊臣秀吉」)と、「織田信長」を討った「明智光秀」が、山崎(現在の京都府長岡京市)で激突した合戦です。山崎にあった「天王山」が戦の要だったことから、別名「天王山の戦い」とも呼ばれています。この天下分け目の戦いは、1日のうちに勝敗が決し、羽柴秀吉が勝利。織田信長の後継者となった羽柴秀吉は、天下統一へと乗り出すことになりました。
仁王像のある仁王門をくぐって境内に入ると、本堂の他に閻魔堂や山崎の戦いで勝利した秀吉が一晩で建てたと言われている三重塔など色々見どころがあります。秀吉はこのお寺に本陣を置いたそうで、秀吉が腰掛けたとされる秀吉の出世石などもありました。禁門の変では十七烈士の陣地となったそうです。
P5348さん
「長篠の戦い」は、1575年(天正3年)に起こった「織田信長・徳川家康連合軍」と、「武田勝頼」(たけだかつより)率いる武田軍との間で起こった合戦です。この合戦で勝利を収めた織田信長の勢いは、これ以降さらに増すこととなりました。強大な騎馬隊を有する武田軍を、「馬防柵」と「鉄砲隊」で撃破した長篠の戦いは、これ以後の日本の兵法に大きな影響を与えました。
織田、徳川連合軍と武田軍との長篠の戦いで名高い長篠城址跡の資料がたくさん展示してある保存館です。周辺には武田軍の猛攻に耐えた長篠城本丸跡や武田方陣地跡や墓など合戦にまつわる史跡が点在しています。それらを見に行く前にここに寄って予備知識をつけておくと、当時の合戦の様子をより一層想像しやすいと思います。
ヒラさん
「鳥取城の戦い」は、1581年(天正9年)、「鳥取城」(現在の鳥取県鳥取市)を舞台に、「織田信長」に「中国攻め」を命じられた「羽柴秀吉」(のちの「豊臣秀吉」)が、毛利方の「吉川経家」(きっかわつねいえ)を「兵糧攻め」にした戦いです。これによって、羽柴秀吉が勝利し、吉川経家は自害。その兵糧攻めがあまりにも凄惨だったことから、「鳥取の渇え殺し」(とっとりのかつえごろし)と呼ばれており、「三木の干殺し」、「高松城の水攻め」と併せて、「秀吉三大城攻め」とも言われています。
羽柴秀吉と毛利軍との戦いの舞台(中国攻め・鳥取城の兵糧攻め)で少しだけ有名な場所。
城は無いですが、二の丸から鳥取市街地が一望できます。お堀の周辺は風が吹くと心地よく、散歩コースに最適♪ どこか懐かしい心安らぐ場所です。
トシキさん
「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)は、1560年(永禄3年)に尾張国(現在の愛知県)の桶狭間で、尾張国主「織田信長」と、駿河・遠江・三河を領国する「今川義元」との間で起こった合戦です。この合戦で、兵士の数では圧倒的に劣勢だった織田信長が勝利。「甲相駿三国同盟」の一角だった今川義元が討死したことで、戦国大名のパワーバランスが大きく変化。織田信長は、この戦いの勝利で天下取りへと躍進するきっかけをつかみました。
織田信長の奇襲攻撃が大成功した桶狭間の戦い。戦国時代のハイライトのひとつですね。
古戦場公園内には今川義元の墓や義元首洗いの泉があり、合戦の跡地というリアルさを感じました。
布陣図や解説文が載った案内板もあり、合戦の様子が詳しくわかります。それにしても、わずか3千ほどの軍勢で数万とも言われた義元の大軍に勝利するとは…!戦略家としての才能を感じますね。
lp9654さん
「備中高松城の水攻め」とは、近畿地方の平定に成功した「織田信長」が、中国地方攻略による天下統一を狙い、1582年(天正10年)、羽柴秀吉(のちの「豊臣秀吉」)に命じ、難攻不落と言われた「備中高松城」を、「水攻め」という奇策で攻略した戦いです。この備中高松城の水攻めは、「三木の干殺し」、「鳥取の飢え殺し」と合わせて、「秀吉三大城攻め」とも呼ばれています。
備中高松城は豊臣秀吉が水攻めを行った戦地として有名ですが、その通りで周囲が平野に囲まれていました。蓮が見ごたえあるという池があります。そこから秀吉が陣を構えたという最上稲荷がよく見えました。重ねてみると、確かに水攻めを行うという対象にはぴったりな立地のような気が。歴史を身近に感じられる場所です。
てんこうさん
「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)は、1185年(寿永4年/元暦2年)3月24日、長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行なわれた「治承・永寿の乱」、いわゆる「源平合戦」における最後の戦いです。この戦いで、平氏が擁立した「安徳天皇」(あんとくてんのう)が入水し、「源義経」率いる源氏が勝利しました。平家一門は捕らえられ、これまで栄華を誇った平氏は滅亡。長きに亘った治承・永寿の乱は、ついに幕を閉じたのです。
現在、源平合戦最期の地である壇ノ浦古戦場は「みもすそ川公園」として整備されて遊歩道があり歴史を感じながら散策ができます。 源義経像や平知盛像、馬関戦争時に使われた長州砲のレプリカ等があり、この場所が歴史的にも大きな役割を果たしたことを感じさせられました。
A5372さん
江戸時代初期の1637年(寛永14年)~1638年(寛永15年)にかけて、九州西部で日本史上最大とも言われる一揆「島原の乱」(しまばらのらん)が勃発しました。藩主による重税や、キリスト教徒の迫害、飢饉などが重なり困窮した領民が、キリシタン(カトリック教徒)を中心に蜂起したのです。鎮圧に4ヵ月も要した島原の乱は、江戸幕府が諸外国との航行や貿易を厳しく制限する「鎖国政策」(さこくせいさく)へ突き進む要因のひとつになりました。
天草一揆の最後の舞台となった原城。海が見える小高い場所にあり、お城は跡形もなく破壊されていますが、城に続く道や一部残っている石垣などに、歴史と人民の悲劇を感じます。天草四郎の墓もあり、立派な像が建っていました。
W2158さん
「金ヶ崎の戦い」(かねがさきのたたかい)は、1570年(元亀元年)に越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市金ヶ崎町)で、「織田信長」と「徳川家康」率いる織田・徳川連合軍と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の間に起こった合戦であり、織田・徳川連合軍が窮地に陥った戦です。この戦いに向けて約3万の軍勢を集め、約4,500の朝倉軍と相対していた織田・徳川連合軍にとっては、まさに青天の霹靂。また、織田信長が危機的状況下で行なった撤退戦でもあることから、「金ヶ崎の退き口」、及び「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれている戦です。
金ヶ崎の名は、織田信長と浅井・朝倉との戦でのちの豊臣秀吉が殿(退却戦)を努めた地として思い出されます。他にも南北朝時代にも戦があったようで、現在ではその古戦場碑が建っています
castle fanさん
「川中島の戦い」は、1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)にかけて、甲斐国(現在の山梨県)主である「武田信玄」と、越後国(現在の新潟県)主である「上杉謙信」との間で、北信濃国(現在の長野県北部)の領有権をめぐり5度対戦した合戦の総称です。5度の合戦の中で激戦となった4回目の合戦が、千曲川と犀川が合流する「川中島」で行なわれたことから、川中島の戦いと呼ばれています。両軍とも多数の戦死者を出しましたが、決着はつきませんでした。
長野には多くの史跡がありますが、武田信玄と上杉謙信が一騎打ちをした川中島の古戦場にやっと行ってきました! 印象的だったのは両軍の兵士を葬った首塚。公園内の八幡社にあります。両軍共に数千もの死者が出たというのだからさぞかし壮絶な戦いだったのでしょう。兵士たちの追悼の意もこめて、毎年秋に川中島古戦場まつり花火大会が開催されているそうなので再訪しようと思います。
U9536さん