無鑑査刀匠一覧(39名)
「今泉俊光」(いまいずみとしみつ 本名:済)は、1898年(明治31年)に佐賀県で誕生しました。刀匠の道を志した俊光は、1924年(大正13年)に故郷である佐賀県を離れ岡山県児島郡赤碕村へ移住し、独学で鍛刀研究を始めます。1934年(昭和9年)から「備前長船」(びぜんおさふね)の作刀技術を学び、以後、備前伝の復興に生涯を懸けて取り組みます。
第二次世界大戦中、俊光はその高い技術が認められ、「陸軍受命刀匠」(りくぐんじゅめいとうしょう)として軍刀の鍛刀を任せられました。1945年(昭和20年)には、衰退の危機にあった備前伝の復興のために岡山県長船町に鍛冶場を設立しますが、終戦と同時にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本刀の製造が禁止されます。
しかし、「刀を造りたいという一念は岩をも通す桑の弓の如し」と作刀への強い思いを常に持ち続けていた俊光は、鍛冶場を離れようとはしませんでした。しばらくは、鎌や鍬などの制作で生計を立てる不遇の時代を過ごしますが、このとき培った粗悪な材料から良質な鋼を作る技術がのちの俊光の作刀に活かされたのです。
1954年(昭和29年)、文化庁より作刀許可を受けた俊光は再び精力的に作刀し、備前伝の復興に情熱を注ぎます。
1959年(昭和34年)岡山県重要無形文化財保持者に認定されると、1968年(昭和43年)には日本の文化活動に著しく貢献した人物に贈られる「吉川英治文化賞」(よしかわえいじぶんかしょう)を受賞。1970年(昭和45年)に新作名刀展に出品し、同年、無鑑査に認定されます。1991年(平成3年)には、新作刀展覧会で90歳を超えて特別賞を受賞するなど晩年まで活躍を続けました。
衰退へと向かっていた備前長船刀を復興させた功績から、「備前刀復興の祖」と言われる俊光。岡山県瀬戸内市の「備前長船刀剣博物館」には「今泉俊光刀匠記念館」が併設されており、その功績をたたえるとともに、俊光の作刀道具が展示されています。
俊光は、95歳の時に自身の刀匠としての生涯を「ただ自分が思うがままの刀造りの道であった」と述べており、1995年(平成7年)に97歳で逝去するまで、一途に作刀に取り組みました。
二代川島忠善は、島根県無形文化財保持者である刀匠・初代川島忠善(かわしまただよし 本名:善左衛門)を父に持つ刀匠です。奥出雲の地では、古来より良質な砂鉄と粘土が取れたためたたら製鉄が盛んで、川島家も明治時代より代々鍛冶を生業としていました。
1923年(大正12年)に生まれた二代忠善は、1938年(昭和13年)、15歳の時に家業を継ぐため父の下で作刀を学び始めました。その後、刀匠となった二代忠善は、1958年(昭和33年)、財団法人日本美術刀剣保存協会が主催する作刀技術発表会に初出品し、その翌年には早くも優秀賞を受賞します。
以降も意欲的に作品を発表し、文化庁長官賞、毎日新聞社賞などを受賞。そして1966年(昭和41年)、二代忠善は父と同じ島根県無形文化財保持者となり、1972年(昭和47年)には現代刀匠の最高位とされる無鑑査に認定されました。
また、忠善は作刀に打ち込む傍ら、初代川島忠善が創業した刃物ブランド「雲州忠善」(うんしゅうちゅうぜん)の製品として、日本刀の他農具や包丁といった40種類以上の道具製作も手掛けました。さらに鍛冶の伝統技術継承にも尽力するなど精力的に活動を続け、1989年(平成元年)にこの世を去りました。
二代川島忠善は五箇伝のひとつ、備前伝を得意とした刀匠。手がけた日本刀は反りが深く豪壮な姿が特徴で、精美な地鉄に華やかで美しい刃文など、高度な技術を必要とする作品を多く残しています。
刀匠「遠藤光起」(えんどうみつおき 本名:仁作)は、1904年(明治37年)に新潟県で生まれました。小学校を卒業後に鍛冶職人として働き始め、独学で作刀について研究するようになります。
そして1935年(昭和10年)、仁作は上京し、刀匠であり日本刀復興運動の提唱者であった栗原彦三郎(くりはらひこさぶろう)に入門。栗原彦三郎の運営する日本刀鍛錬伝習所で刀匠としての本格的な修行を始めます。
師匠である栗原彦三郎は、仁作の技量を高く評価しており、仁作もその期待に応えるように修練を積んでいきます。数年を経て、仁作は刀匠・遠藤光起として様々な作品展に日本刀を出品するようになり、優秀賞や入選、特賞、日本刀大共進会優秀賞、日本刀展覧会特選4回、誉特選賞2回、金牌、総裁賞など多くの受賞を果たし、刀匠としての評価を高めていきます。
1939年(昭和14年)には、後鳥羽天皇700年祭奉賛会にて日本刀を奉納、1945年(昭和20年)には当時の海軍大将・山本五十六(やまもといそろく)の記念刀を鍛刀します。
その後も、伊勢神宮を始め名だたる神社仏閣に刀剣を奉納し、1981年(昭和56年)には財団法人日本美術刀剣保存協会によって無鑑査に認定されました。
光起の作風は、師匠譲りの備前伝であり、見映えのする美しい姿を特徴としています。また、地鉄が精密で美しく、いずれの作品も完成度が高い見事な仕上がりとなっています。
酒井一貫斎繁政(さかいいっかんさいしげまさ 本名:酒井寛)は、1905年(明治38年)、酒井安次郎(さかいやすじろう)の三男として静岡県に生まれました。安次郎は、刀匠・宮口正寿の弟です。
1921年(大正10年)、16歳になった寛は刀匠となることを志し、日本刀鍛法の復興伝承に努めた名匠「笠間一貫齋繁継」(かさまいっかんさいしげつぐ)の門下に入るために上京します。笠間一貫齋繁継は、栗原彦三郎(くりはらひこさぶろう)の運営する日本刀伝習所において初期の師範を努めた刀匠で、のちの人間国宝「宮入昭平」(みやいりあきひら)を始めとする多くの刀匠を育成した人物です。
繁継の下で10年以上、備前伝の刀匠としての修行を積んだ寛は、師匠より「繁」の字を与えられ、刀匠「繁正」と名乗るようになります。1932年(昭和7年)に繁正は独立し、翌年から靖国神社の日本刀鍛錬所で作刀を開始。そして1941年(昭和16年)、繁正は陸軍受命刀匠に認定され、1944年(昭和19年)には海軍受命刀匠の認定も受けました。
戦後、繁正は「繁政」と改名し、精力的に作刀を行い、1981年(昭和56年)には公益財団法人日本美術刀剣保存協会により無鑑査として認定されます。
繁政の作品は鍛錬の巧みさから地鉄が美しく、刃文が際立っているのが特徴です。また、繁政は刀身彫刻の名手としても有名で、豪壮な刀身に入念な彫刻を施した逸品を数多く残しました。
長らく東京で作刀していた繁政は、晩年には埼玉へと居を移し、1996年(平成8年)91歳で世を去るまで精力的に作刀を行ったのです。
八鍬靖武(やくわやすたけ 本名:武)は、1909年(明治42年)に山形県で生まれました。
武は、新々刀の祖として知られる同郷の水心子正秀(すいしんしまさひで)系の刀匠「池田一光」(いけだかずみつ 本名:靖光)の門下に入り、作刀を学びます。その後、武は1935年(昭和10年)に上京し、靖国神社の境内において作刀を行う財団法人日本刀鍛錬會に入会。ここでは「靖国刀」(または九段刀)が作刀されており、武は靖国刀匠として作刀を続けます。
靖国刀は、出雲(現在の島根県東部)産の玉鋼を用いて鍛錬した軍刀です。武は第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、陸軍大臣・杉山元帥より「靖武」(やすたけ)の銘を授かり、以降は刀匠「八鍬靖武」と名乗り作刀に務めます。
終戦後、作刀は認可制となり自由に日本刀を作ることができなくなりますが、靖武は1954年(昭和29年)に認可を受け、再び作刀を開始。新作を次々と発表し、多くの展覧会、品評会に出品して入賞します。
武は、山城伝の刀匠・来国俊(らいくにとし)や、相州伝の刀匠「新藤五国光」の作品を目標として作刀を行いました。1973年(昭和48年)には伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀を鍛刀する他、靖国神社など全国の神社の求めに応じて刀剣を奉納。そして1981年(昭和56年)には公益財団法人日本美術刀剣保存協会により無鑑査刀匠の認定を受け、正宗賞も受賞します。
1983年(昭和58年)に74歳で没するまで、靖武は意欲的に作刀に取り組み、豪壮で姿美しく、地肌の精良な名刀を多く残しました。