無鑑査刀匠の称号を持つ刀工「法華三郎信房(八代)」の生い立ちや、刀剣に関する功績、そして作刀した刀剣などについてご紹介します。特定の展覧会や団体・個人において、過去の実績をもとに「審査・鑑査」を必要とせずに作品の出品が認められた刀匠である無鑑査刀匠。刀剣における「無鑑査」は「公益財団法人日本美術刀剣保存協会」が開催するコンクールにおいて複数以上、特賞を受賞することで認定されるため、刀匠としては最高位に位置付けされます。
「法華三郎信房(八代)」(ほっけさぶろうのぶふさ 本名:高橋昇)は、1909年(明治42年)に北海道室蘭市で生まれました。
昇は、陸奥仙台藩の「初代仙台国包」(しょだいせんだいくにかね)の流れを汲む「半蔵国包(九代)」(はんぞうくにかね)に師事(仙台藩では[くにかん]と呼ぶ)。当初は「法華三郎信房(七代)」の備前伝の作風を受け継ぎ「景房」(かげふさ)を名乗っていましたが、のちに信房に改名し、1964年(昭和39年)の新作美術刀剣展にて入賞以降、様々な賞を毎年続けて受賞しました。
1966年(昭和41年)に宮城県指定重要無形文化財、1981年(昭和56年)に無鑑査刀匠の認定を受けています。もともと法華家における日本刀の製法は、「初代清房」(しょだいきよふさ)の時代には大和伝をもとにしていましたが、紆余曲折を経て五代目の頃に備前伝に転向していました。
しかし、八代目信房が研究を重ねた末、大和伝保昌派(やまとでんほうしょうは)の作風の復元に成功したのを機に、法華家の大和伝が復活することになったのです。
信房は、2000年(平成12年)10月25日に91歳で死去。その作風は、長男の「法華三郎信房(九代)」とその息子の高橋栄喜に受け継がれており、現在2人は大和伝保昌派の鍛法を継承する、限られた刀匠として広く知られています。