無鑑査刀匠の称号を持つ刀工「二唐國俊」の生い立ちや、刀剣に関する功績、そして作刀した刀剣などについてご紹介します。特定の展覧会や団体・個人において、過去の実績をもとに「審査・鑑査」を必要とせずに作品の出品が認められた刀匠である無鑑査刀匠。刀剣における「無鑑査」は「公益財団法人日本美術刀剣保存協会」が開催するコンクールにおいて複数以上、特賞を受賞することで認定されるため、刀匠としては最高位に位置付けされます。
江戸時代初期より、津軽藩の城下町である弘前(現在の青森県弘前市)は刃物の町として栄え、最盛期には100以上の鍛冶屋が軒を連ねていたと言われます。二唐(にがら)家は、津軽藩の御用鍛治を代々務めたこの地の名門であり、「二唐國俊」(にがらくにとし)はその五代目です。
1906年(明治39年)に先代の刀匠「二唐義信」(にがらよしのぶ)の子として生まれ、1921年(大正10年)より家業である鍛治に従事するようになりました。
1931年(昭和6年)に東北大学附属金属材料研究所所長の「本多光太郎」(ほんだこうたろう)理工学博士のもとで長期講習生として学び、1940年(昭和15年)より刀匠「堀井俊秀」(ほりいとしひで)らの内弟子となり、同年の日本刀展覧会にて金賞を受賞しました。
翌1941年(昭和16年)に「栗原彦三郎」(くりはらひこさぶろう)に入門したのを機に「二唐昭弘」(にがらあきひろ)を名乗り、日本刀展覧会で総裁大名誉賞、内閣総理大臣賞、及び特賞を続けて受賞。1943年(昭和18年)に陸軍軍刀展覧会において最高賞である陸軍大臣賞を受賞したのち、昭弘改め「國俊」(くにとし)を名乗るようになりました。
翌年にも同賞を受賞し、1945年(昭和20年)には、当時の陸軍省の命により京都伏見稲荷大社にて2ヵ月間、鍛刀に従事します。同年8月15日の第二次世界大戦終結とともに二唐國俊は鍛刀を一時中止しましたが、1946年(昭和21年)にアメリカ陸軍(第8軍)のミーラ司令官からの辞令で鍛刀を再開。
1949年(昭和24年)に家業を有限会社に組織変更し、「有限会社二唐刃物鍛造所」を設立しました。数多くの賞を受賞し、1963年(昭和38年)に弘前市無形文化財第一号となった二唐國俊は、1981年(昭和56年)に無鑑査認定を受け、1987年(昭和62年)に81歳で永眠するまで作刀文化の普及に努めました。
なお、江戸時代から戦前まで武器としての日本刀を作り続けた二唐家は、時代の移り変わりとともに家庭用・業務用刃物(特に包丁)の制作に力を入れるようになり、1965年(昭和40年)には鍛造所の営業品目から作刀が外されました。
しかし、その技術は二唐刃物鍛造所の刃物作りに脈々と受け継がれており、同鍛造所の製品は現在、青森県伝統工芸品に認定されています。