サラリーマンからの転身という、異色の経歴を持つ刀匠・瀬戸吉廣(せとよしひろ)は、1945年(昭和20年)、福岡県に生まれました。大学を卒業後、東京で医薬品販売会社に勤務していた吉廣は、医療用メス製造の後継者不足を知り、鍛冶職人となることを決意、退職します。
しかし、吉廣はメスの鍛冶職人から入門を断られ、刀匠の道を勧められます。そこで吉廣は、刀匠・天田昭次(あまたあきつぐ)の門を叩きますが、病から回復して間もなかった天田は、刀匠・宮入行平(みやいりゆきひら)を紹介。宮入を訪ねた吉廣は入門を許され、刀工としての修行を始めます。
その後、1971年(昭和46年)に吉廣は宮入の下を離れ、のちに人間国宝となる石川県の刀匠・隅谷正峯(すみたにまさみね)の門下となります。隅谷の下で雑務をこなしながら、吉廣は鍛刀技術を修得。様々な新作刀展に出品し、数多くの入賞を果たしました。
そして1977年(昭和52年)、吉廣は文化庁より作刀を承認されて独立。一層意欲的に鍛刀に取り組みます。その結果、1996年(平成8年)には公益財団法人日本美術刀剣保存協会より無鑑査として認定されました。
独立後もしばしば師匠の下に通い技を高めた吉廣の作風は、師匠である隅谷によって授けられた備前伝に則る物で、丁子(ちょうじ)と呼ばれる刃文が美しい日本刀を生み出しています。
広木弘邦(ひろきひろくに 本名:順一)は、刀匠・廣木国広(ひろきくにひろ)の息子として1948年(昭和23年)に福岡県で生まれました。
幼少期より父・国広から作刀指導を受けて育った弘邦は、1965年(昭和40年)、本格的に刀匠を目指すことを決意。石川県の刀匠・隅谷正峯(すみたにまさみね)に入門し、作刀を学びます。1968年(昭和43年)、文化庁より作刀承認を得た弘邦は、19歳の若さで新作名刀展へ初出品を果たし、翌々年には努力賞を受賞。1973年(昭和48年)に独立し、神奈川県厚木市に鍛冶場を開設しました。
その後、弘邦は日本刀及び刀装具の研究家であり、研師(刃物を研ぐ職人)としても活躍する池田末松(いけだすえまつ)の門下に入り、研磨について学びます。
さらに弘邦は、隕鉄(いんてつ:隕石の一種)、靖国鉄(やすくにてつ:日本軍が軍刀の材料として作り出した玉鋼)といった様々な鉄の研究にも取り組み、作刀に関する総合的な知見を深めていったのです。
こうして技術と知識を着実に高めていった弘邦は、作品展にも意欲的に出品し、新作刀展で特賞を8度受賞。1996年(平成8年)には無鑑査に認定され、現代を代表する刀匠としてその名が知られるようになります。
弘邦は、直線的な刃文である直刃(すぐは)を得意とし、備前伝・山城伝・相州伝などの技法を取り入れました。特に、相州伝の創始者であり鎌倉時代後期の刀匠・新藤五国光(しんとうごくにみつ)作品の写しに定評があり、備中国青江の写しは高い完成度を誇ります。
数々の名刀を生み、今後の活躍が期待されていた弘邦ですが、2013年(平成25年)、65歳で惜しまれつつこの世を去りました。
刀匠・宮入小左衛門行平(みやいりこざえもんゆきひら 本名:恵・けい)は、天田昭次(あまたあきつぐ)や大隅俊平(おおすみとしひら)といった名匠を輩出した宮入一門の頭領である人間国宝・宮入行平(みやいりゆきひら 本名:堅一)の息子として、1957年(昭和32年)に長野県で生まれました。
次男であった恵は当初、刀匠の道を志してはいませんでしたが、1977年(昭和52年)より父・宮入行平の下で刀匠の修行を始めます。
しかし、修行の半ばで父・宮入行平が急逝してしまい、恵は父の高弟である刀匠・藤安将平(ふじやすまさひら)に師事。優れた刀匠となるべく鍛錬の日々を重ね、1982年(昭和57年)、文化庁より作刀承認を得た恵は、刀匠・宮入恵として新作名刀展をはじめとする品評会に次々と作品を出品し入賞。刀匠としての評価を高めていったのです。
1996年(平成8年)には、やはり刀匠であった曽祖父の名「小左衛門」と父の名を受け、宮入小左衛門行平に改名。2000年(平成12年)、無鑑査に認定されました。
小左衛門の作る日本刀は、父・宮入行平と同様に南北朝時代の美濃の刀匠・志津兼氏(しづかねうじ)の作風を踏襲しつつも小左衛門行平流の相州伝を確立することを目標に掲げ、さらに美しい姿、透明感のある地鉄にやわらかな刃文を持つ個性的な日本刀を生み出しています。
大久保和平(おおくぼかずひら 本名:十和彫[とわづ])は、1943年(昭和18年)に神奈川県に生まれました。生家は日本刀とは無縁でしたが、学生時代にのちの人間国宝である宮入昭平(行平)について著した書籍に感銘を受け、1961年(昭和36年)18歳で宮入に弟子入りを志願。当時、病を患っていた宮入には弟子が高橋次平だけで人手が不足していたため、和平は高校卒業を待たず入門を許されました。
和平は、その日から厳しい修行を5年間積み、1967年(昭和42年)に文化庁から作刀承認を得ます。その後、実家に鍛錬所を設立、師匠の名より「平」の字を受け、刀匠・大久保和平として独立しました。
しかし、独立後間もなく和平は事故に遭い重傷を負ってしまいますが、幸いにも一命を取り留め、厳しいリハビリを経て再び作刀に専念します。
独立後は師匠から受け継いだ相州伝を体得し、新作名刀展など様々な展覧会で入賞、1991年(平成3年)の新作名刀展では特賞にあたる薫山賞(くんざんしょう)を受賞します。2000年(平成12年)には公益財団法人日本美術刀剣保存協会が認定する無鑑査となりました。
和平は2003年(平成15年)に59歳で没しましたが、生前は相州伝のみならず、古刀の写しの作刀や備前伝などの様々な流派を研究し、多くの名刀を残しました。
吉原義一(よしはらよしかず)は、1967年(昭和42年)、刀匠・吉原義人(よしはらよしんど)の長男として東京に生まれました。
吉原家は代々続く刀鍛冶の名門。曽祖父である刀匠・初代吉原国家(よしはらくにいえ)、父であり公益財団法人日本美術刀剣保存協会の無鑑査に認定された吉原義人に加え、叔父もまた刀匠・三代吉原国家(よしはらくにいえ)という一家の中で育った吉原義一は、自ずと刀匠を志すようになり、1985年(昭和60年)高校卒業と同時に父に弟子入りします。
5年間の修行期間を経て、1990年(平成2年)、文化庁から作刀承認を得た吉原義一は、吉原家四代目として精力的に作刀、新作名刀展に出品し、努力賞と新人賞を受賞します。以降も毎年上位に入賞し、2003年(平成15年)には史上最年少、36歳で無鑑査に認定されました。
吉原義一は父・吉原義人から受け継いだ備前伝を得意としていました。地鉄作りを重視し、基本に忠実で備前伝の特徴である蛙子丁子(おたまじゃくしの形に似た丁子乱れ)の美しい刃文が特徴です。
また、吉原義一は日本国内に留まらず、海外でも積極的に日本刀の展示会を催すなど、日本刀の魅力を広く世に発信する活動にも尽力。さらなる活躍を期待されながら、2018年(平成30年)に51歳の若さで逝去しました。