初代「尾川兼圀」(おがわかねくに 本名:邦彦)は、1925年(大正14年)に岐阜県で生まれました。1939年(昭和14年)から作刀を学び始め、1943年(昭和18年)18歳で日本最年少の陸軍受命刀匠(軍刀の作刀を認められた刀匠)となっています。
しかし、1945年(昭和20年)に日本が第二次世界大戦に敗戦すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本刀の製造が禁止。兼圀はやむなく別の職に就きますが、作刀への情熱を絶やすことなく持ち続け、1972年(昭和47年)再び刀匠の道を進むことを決意したのです。
当時、作刀には文化庁の許可が必要で、許可を得るためには刀匠のもとで5年間修業した経験、もしくは刀匠としての活動実績が求められていました。兼圀はそれまでの実績を証明するものがすべて戦火で焼失していたため、刀匠「金子孫六」(かねこまごろく)に入門し、1977年(昭和52年)に作刀許可を得ます。
その後、兼圀は新刀名刀展にて特賞を含む数々の賞を獲得、再び刀匠としての地位を確立していきました。2006年(平成18年)には、刀匠界で人間国宝に次ぐ名誉とされる無鑑査に認定。
兼圀の作風は覇気のある相州伝で、特に、打ち寄せる大きな波を思わせる刃文「濤乱刃」(とうらんば)を得意としていました。
刀匠として精力的に作刀を続けた兼圀は、2012年(平成24年)に逝去。その優れた技術は、息子である刀匠「尾川兼國」(おがわかねくに 本名:光敏)に受け継がれています。
1958年(昭和33年)に福岡県で生まれた「宗昌親」(そうまさちか 本名:正敏)。
宗昌親の実父は、刀匠界で人間国宝に次ぐ名誉とされる無鑑査の認定を受けた刀匠「宗勉」(そうつとむ)です。
宗昌親は、九州大学工学部冶金学科で古刀の制作理論を学び、卒業後は日立金属に入社して「冶金」(やきん:金属を加工して用途に応じた金属材料を製造すること)の研究に従事します。その後退職し、1983年(昭和58年)、25歳のときに父である宗勉に入門して本格的に作刀を学び始めます。
父であり、師匠である宗勉の「刀は地鉄で決まる」という言葉を胸に、刀工として地鉄の探求に励みます。冶金を科学的に研究してきた宗昌親は、豊富な知識を実地で活かせる刀匠として実力を身に付け、1990年(平成2年)に新作刀展覧会に初出品し、その年の新人賞と優秀賞を受賞。刀匠として華々しいデビューを飾りました。
その後、1997年(平成9年)に全日本刀匠会理事長賞の特賞を獲得すると、翌年以降連続して日本美術刀剣保存協会名誉会長賞、同会長賞、文化庁長官賞、高松宮賞などを次々と獲得し、刀匠としての本領を発揮していきます。
そんな優れた作品を生み出し続ける宗昌親の作品の中でも、特に2005年(平成17年)に高松宮賞を獲得した津田越前守助廣(つだえちぜんのかみすけひろ:江戸時代の摂津国の刀匠)の日本刀を写した1振は、最高傑作と評されました。
打ち寄せる大きな波を思わせる刃文が特徴的な「濤乱刃」(とうらんば)の刀は、出展作品の中でも群を抜いており、翌年の日本美術刀剣保存協会新作刀展覧会ポスターのメインビジュアルに使用され、近代日本において名実ともに最高峰の刀匠となったのです。
そして、2006年(平成18年)、宗昌親は無鑑査に認定され、父である宗勉と並び2代に亘って、刀匠界に宗の名を刻みました。
「古川清行」(ふるかわきよゆき 本名:信夫)は、1948年(昭和23年)長野県生まれ。東京理科大学で応用物理学を専攻していましたが、在学中に訪れた信濃美術館の名刀展にて、日本刀に魅せられ刀匠を志します。
1972年(昭和47年)に大学を卒業し、人間国宝である刀匠「宮入昭平」(みやいりあきひら)の弟「宮入清平」(みやいりきよひら)に弟子入り。そして、中世由来の古刀作刀技術を学びます。1978年(昭和53年)に文化庁から作刀承認を受け、1981年(昭和56年)長野県須坂市下八町に鍛刀場を開き独立しました。
古川清行は、鎌倉時代の古刀の再現を目標に作刀に励みます。鎌倉時代には、優れた刀が多く残されていますが、製法について記された文献がほとんど残っておらず、現存する古刀から製法や材料を推測する必要がありました。そのため、再現には日本刀に関する幅広い知識と洞察力が求められたのです。
古川清行は理想の1振を求めて作刀研究を重ね、自身が目指す鎌倉時代に作られた名刀の再現に邁進します。研究と鍛錬を重ねた結果、古川清行は刀匠としての高い技術を身に付けていきました。
そして、1987年(昭和62年)の新作名刀展にて寒山賞を獲得すると、以降特賞・優秀賞等を多数受賞し、刀匠としての地位を確固たるものに。古川清行は、「湾れ刃」(のたれば)と言われる波が寄せるような美しい刃文が際立つ相州伝の日本刀を得意としています。
2007年(平成19年)には、刀匠としての功績が認められ、長野県須坂市無形文化財に指定されます。2009年(平成21年)の新作名刀展にて日本美術刀剣保存協会名誉会長賞を受賞すると、刀匠界で人間国宝に次ぐ名誉とされる無鑑査に認定されました。
翌年、無鑑査として初出品した作品が金賞を受賞。この刀について古川清行は、「会場で日本刀としての歩みを始めた我が子の晴れ姿を観て、あらためて手が離れたことを感慨深く思った」と振り返り、日本刀を我が子の成長に例え、その愛情を表現します。
その後も作刀活動に邁進した古川清行ですが、2015年(平成27年)に67歳で惜しまれつつも逝去しました。
「尾川兼國」(おがわかねくに)は初代「尾川兼圀」(おがわかねくに)の次男として1953年(昭和28年)に生まれました。父である尾川兼圀は岐阜県重要無形文化財保持者で、刀匠界では人間国宝に次ぐ名誉である無鑑査に認定された刀匠です。
尾川兼國は、父の仕事を継ぎたいという想いから、1986年(昭和61年)33歳のときに父に弟子入りします。二代目を継承したのちは「兼國」を名乗りました。初代・二代目ともに「かねくに」と読みますが、初代兼圀とは違い、二代目は「國」という漢字を用いています。
尾川親子は、1997年(平成9年)新作刀展にて、ともに特賞を受賞。2009年(平成21年)には尾川兼國も無鑑査認定を受け、現代の刀匠界を語るのに欠かせない親子となりました。
尾川兼國の作品の特徴は、打ち寄せる大きな波を思わせる相州伝の濤乱刃(とうらんば)と呼ばれる刃文。先代も得意とした濤乱刃の技法を受け継ぎ、数々の刀剣を作刀しています。2019年(平成31年)には、平成の30年間に優れた作品を作り上げ、刀匠界に大きく貢献した刀匠を表彰する「平成の名刀・名工展」において名工選を受賞。
作刀活動以外にも、2011年(平成23年)には全日本刀匠会理事兼東海地方支部の支部長を務め、日本刀の文化保持と今後の発展に尽力しています。
松田次泰(まつだつぐやす 本名:周二)は、1948年(昭和23年)に北海道で生まれました。大学卒業後、刀匠の道に惹かれた松田次泰は、1974年(昭和49年)、長野県の「高橋次平」(たかはしつぐひら)に入門します。師匠の高橋次平は、人間国宝である刀匠「宮入昭平」(みやいりあきひら)の一番弟子。昔気質の大変厳しい人でした。
最初の4年間はひたすら炭切り(焼入れに必要な炭を均等な大きさに切り分ける作業)に励むという忍耐のいる修行を乗り越え、6年目にして初めて日本刀を作らせてもらうことができたのです。その後、文化庁より作刀許可を受け、1981年(昭和56年)に千葉県に鍛刀場を開設し、刀匠として独立します。
刀匠として歩み始めた松田次泰は、その年の新作刀展にて努力賞を受賞。以後優秀賞を5回受賞するなど刀匠としての評価を高めていきます。一貫して「古備前派」(こびぜんは:備前伝の始まりとなった平安時代末期から鎌倉時代初期の刀匠の総称)の古刀の再現を目標としてきた松田次泰は、1996年(平成8年)鎌倉時代の古刀の再現に見事成功。その1振は、「恐らく800年ぶりにできた鎌倉の技術だろう」と鑑定家に言わしめたほどの逸品で、その年の日本美術刀剣保存協会会長賞を受賞しました。
刀匠としての地位を確立した松田次泰は、1999年(平成11年)英国刀剣会に招聘され、ロンドンにて個展を開催するなど、日本だけでなく世界的にその高い技術が認められていったのです。
2006年(平成18年)、高松宮記念賞を獲得し、2009年(平成21年)にはその功績が認められ、人間国宝に次ぐ名誉である無鑑査に認定されます。他にも製鉄のノウハウのある企業「JFEスチール」(旧川崎製鉄)から援助を受けて、緻密なデータ計測や化学的考察も取り入れた作刀技術の研究に真摯に取り組み、常に最新の科学技術を活用して古刀の再現に精力を注いでいるのです。
その後も、大相撲の横綱・白鵬関の土俵入り太刀の作刀を手掛けるなど、多岐にわたる活躍を重ねた松田次泰は、2015年(平成27年)には千葉県の無形文化財保持者に認定されました。