無鑑査刀匠の称号を持つ刀工「谷川盛吉」の生い立ちや、刀剣に関する功績、そして作刀した刀剣などについてご紹介します。特定の展覧会や団体・個人において、過去の実績をもとに「審査・鑑査」を必要とせずに作品の出品が認められた刀匠である無鑑査刀匠。刀剣における「無鑑査」は「公益財団法人日本美術刀剣保存協会」が開催するコンクールにおいて複数以上、特賞を受賞することで認定されるため、刀匠としては最高位に位置付けされます。
「谷川盛吉」(たにがわもりよし 本名:松吉)は、1920年(大正9年)熊本県八代市に生まれ、わずか13歳で刀匠・金剛兵衛盛高靖博(こんごうひょうえもりたかやすひろ)に入門。住込みで師匠宅の子守りや水汲みなどの雑事をこなしながら鍛刀に励みました。
入門して6年が過ぎ、20歳になった盛吉は徴兵令により大日本帝国陸軍・西部第19部隊に入隊。中国北部で戦争に参加し、一時は作刀から離れることになりましたが、帰国後に盛高靖博師匠に再入門。1948年(昭和23年)に27歳で自身の鍛刀場を開いています。
その後1954年(昭和29年)に文化庁から作刀承認を受け、同年に第1回作刀技術発表会に入選。新作名刀展で1967年(昭和42年)、1968年(昭和43年)、1970年(昭和45年)の3回入選し、1985年(昭和60年)に無鑑査に認定されます。
盛吉は、江戸時代後期に活躍した相州伝の刀匠、「源清麿」(みなもときよまろ)の作風に大きな影響を受け、清麿の作風を忠実に再現した「清麿写」(きよまろうつし)の名手として知られていきます。作風は、刃文の形状を複雑に変化させた「互の目乱れ」(ぐのめみだれ)や、互の目乱れの「焼頭」(やきがしら)が丁子乱れ風に丸みを帯びた「互の目丁子」(ぐのめちょうじ)、平地に「白髪筋」(しらがすじ)と呼ばれる銀筋を持つことが大きな特徴です。
また、盛吉は槍作りを得意とする延寿派の刀匠、延寿宣繁(えんじゅのぶしげ)にも師事したため、日本刀だけでなく槍作りの名人としても知られています。この技術はのちに盛吉の息子である谷川博充(たにがわひろみつ)に伝えられ、博充は延寿宣次(えんじゅのぶつぐ)と名乗る刀匠となったのです。
多くの名刀を残しながら、1990年(平成2年)に70歳で他界しましたが、盛吉の長男・博充は父と同じ刀匠に、次男の宏司(ひろし)は日本刀の研ぎ師になり、盛吉の日本刀への思いは次代へと継がれています。