帝室技芸員に任命された刀工「宮本包則」の生い立ちや功績、作刀した刀剣についてご紹介します。1890年(明治23年)旧宮内省が定めた「帝室技芸員制度」により任命された美術家である帝室技芸員には、刀工をはじめ、日本画家や彫刻家、染職、写真家などが存在し、主に日本美術・工芸の保護や制作に携わりました。そして1947年(昭和22年)に廃止されるまでは、任命されることは最高の栄誉と権威であったとされています。
1906年(明治39年)、月山貞一とともに刀匠として初めて帝室技芸員に認定された宮本包則(みやもとかねのり 本名:志賀彦)は、1830年(天保元年)、伯耆国(ほうきのくに)大柿(現:鳥取県倉吉市)に生まれました。志賀彦は幼少期より近所の刀匠の家を訪ねては、刀剣にまつわる話を聞くことを好みました。
1851年(嘉永4年)、22歳になった志賀彦は刀匠を志し、備前国長船(現:岡山県瀬戸内市)に赴き、刀匠「横山祐包」(よこやますけかね)の門下となります。祐包の下で備前伝の技法を修得した志賀彦は、師より「包」の名を授けられ「宮本包則」と名乗るようになります。
刀匠となった包則は、鳥取藩お抱え刀匠の職を経て、京都に鍛冶場を設け、尊王攘夷を掲げて討幕を志す志士達のために作刀を行いました。
そして、朝廷の重鎮であった有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)から厚遇を受け、1867年(慶応3年)に能登守(のとのかみ)を受領。戊辰戦争に従軍したのち、明治天皇の即位のために作刀し、以降三代の天皇の守り刀を手掛け、1886年(明治19年)には伊勢神宮式年祭の宝刀を作刀するなど、1926年(大正15年)に97歳でこの世を去るまで、精力的に作刀活動を続けました。