高橋貞次 (本名:高橋金市)

「高橋金市」(たかはしきんいち)は、1902年(明治35年)に伊予(現在の愛媛県)で誕生しました。兄の影響で刀匠の道を志した金市は、1917年(大正6年)15歳で初代「月山貞一」(がっさんさだかず)、「月山貞勝」(がっさんさだかつ)親子に入門。作刀や刀身彫刻の技術を学びました。金市は1936年(昭和11年)に鍛錬場を開設し「貞次」(さだつぐ)を名乗り始めます。

その後、第1回新刀展示会で総理大臣賞を受賞、1944年(昭和19年)熱田神宮大鍛刀場の主任刀匠に任命されるなど、刀匠として全盛期を迎えます。しかし、1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終わると、鍛刀禁止令が施行。多くの刀匠が包丁鍛冶などに転向する中、貞次は戦火を免れた鍛冶場に住み、家財道具を売って生活難をしのぎました。

それでも生活が苦しかったため、心中も考えましたが、自分が死んでしまうと日本刀の伝統技術が廃れてしまうと思いとどまり、一層日本刀の研究に邁進しました。やがて作刀が許可制になり、1951年(昭和26年)の伊勢神宮ご遷宮の際には宝刀を鍛刀。1952年(昭和27年)に無形文化財となり、貞次は再び刀匠界で注目されるようになります。

貞次の作風は、備前伝の「丁子刃文」(ちょうじはもん:日本刀[刀剣]の刃の部分の模様が丁子の実を連ねた形に見える)を得意としていた作刀です。また、刀身彫刻においても非凡な才能を誇り、これらを駆使して多くの名刀を残しました。そして1955年(昭和30年)、それまでの功績が認められ刀匠としては初の重要無形文化財(人間国宝)に認定されています。

宮入昭平(行平) (本名:宮入堅一)

「宮入堅一」(みやいりけんいち)は、1913年(大正2年)に鍛冶屋の子として長野県に誕生しました。幼いころから農具などの鍛冶をしていましたが、刀匠への憧れを抱き、1937年(昭和12年)に上京します。上京後、刀匠である「栗原彦三郎」(くりはらひこさぶろう)の「日本刀鍛錬伝習所」に入所して作刀を開始。1940年(昭和15年)には、新作日本刀展に「昭平」(あきひら)とを切った日本刀を出品し総裁賞を獲得、「宮入昭平」を名乗り始めました。

戦時中は「陸軍造兵廠」(りくぐんぞうへいしょう:日本帝国陸軍の兵器制作所)の指定工(軍から指定された刀匠)として多くの日本刀を作刀しました。しかし、1945年(昭和20年)日本が第二次世界大戦に敗戦すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の命令により日本刀の製造が禁止となり、昭平は刀匠として不遇の時代を過ごします。

1950年(昭和25年)に日本刀美術刀剣保存協会からの依頼を受け、第59回伊勢神宮御遷宮において奉納刀を作り、そこから本格的に作刀を再開しました。その後は、1955年(昭和30年)日本美術刀剣保存協会主催の第1回美術審査会で、のちの人間国宝「高橋貞次」(たかはしさだつぐ)と共に特賞を受賞するなど刀匠としての地位を確立していきます。

さらに、真清田神社愛知県一宮市)、靖国神社東京都千代田区)、東郷神社(東京都渋谷区)に刀を奉納、第60回、61回の伊勢神宮御遷宮の宝刀を続けて鍛刀するなど精力的に活動。昭平は相州伝を得意とし、志津三郎兼氏や源清麿などの名工の技を研究しました。1963年(昭和38年)にはその優れた技術が認められ、重要無形文化財(人間国宝)認定を受けています。

月山貞一(二代) (本名:月山昇)

「二代・月山貞一」(がっさんさだかず 本名:月山昇)は1907年(明治40年)に刀匠「月山貞勝」(がっさんさだかつ)の子として大阪で誕生。1918年(大正7年)から、父である貞勝より作刀を学び、16歳の頃「月山貞光」(がっさんさだみつ)を名乗り、大阪美術協会展にて初入選、刀匠界で広く知られる存在となります。

貞一は戦時中の日本において重要な作刀を任される機会が多く、1929年(昭和4年)には、昭和天皇に贈呈される「大元帥刀」(だいげんすいとう)を父・貞勝とともに作刀しました。

同年には父の死去に伴い、日本帝国陸軍の兵器製作所の大阪工場である「大阪陸軍造兵廠」(おおさかりくぐんぞうへいしょう)の軍刀鍛錬所責任者に就任。名実ともに戦時中における西日本の刀匠の最高峰となりました。

1945年(昭和20年)、日本が第二次世界大戦に敗戦すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本刀の製造が禁止され、日本刀は伝統技術衰退の危機を迎えます。その後、1954年(昭和29年)の「武器製造法令」により文化財保護委員会から作刀許可を受けるまで、刀匠として不遇の時代を過ごしました。

作刀許可を受けたのちは、精力的に作品を作刀し、1966年(昭和41年)刀匠として著名な祖父「月山貞一」の名を受け継ぎ、二代「月山貞一」を襲名。刀匠として天賦の才を持った貞一は、月山家伝統の綾杉(あやすぎ)鍛えを継承するだけでなく、五箇伝の技法すべてを習得しました。

1971年(昭和46年)には、その抜群の作刀技術が認められ、人間国宝(重要無形文化財保持者)の認定を受けています。

隅谷正峯 (本名:隅谷興一郎)

隅谷正峯(すみたにまさみね 本名:興一郎)は、1921年(大正10年)、醸造業を営む隅谷家の長男として石川県に誕生しました。中学生になった興一郎は、刀剣に興味を持ち、1939年(昭和14年)立命館大学理工学部機械工学科に入学。同校の「立命館日本刀鍛刀所」に入所し、講師の桜井正幸(さくらいまさゆき)に師事して作刀技術を学びました。

1945年(昭和20年)日本が第二次世界大戦に敗戦すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本刀の製造が禁止になり、1953年(昭和28年)に許可制となるまで刀匠として不遇の時代を過ごします。

その後、作刀許可を得た正峯は、1955年(昭和30年)第1回作刀技術発表会にて初入選。刀匠としての評価を高めると、全10回行われた同展に毎回出品し、優秀賞を4回、特賞を4回受賞し、その地位を不動のものにしていきます。

1967年(昭和42年)にはこれまでの功績が認められ、刀匠としては人間国宝に次ぐ名誉である「無鑑査」(むかんさ)に認定。1981年(昭和56年)には、人間国宝(国指定重要無形文化財保持者)に認定されました。

正峯は華やかな備前伝(びぜんでん)を得意とし、鎌倉時代に流行した、やわらかな「丁子刃文」(ちょうじはもん:丁子の実が連なった状態に見える刃文)が特徴的な「隅谷丁子」(すみたにちょうじ)と呼ばれる刃文を開発しました。

さらに、1984年(昭和59年)には全日本刀匠会理事長に就任。1998年(平成10年)に亡くなるまで、刀剣文化の保護発展に尽力しました。

天田昭次 (本名:天田誠一)

刀匠・天田昭次(あまたあきつぐ 本名:誠一)は、1927年(昭和2年)、刀匠・天田貞吉(あまたていきち)の長男として新潟県で生まれました。

誠一が10歳の時、父・貞吉が亡くなります。貞吉の墓参のために東京から訪れた、刀匠であり日本刀復興運動の提唱者であった栗原彦三郎が、自身の下で作刀を学ぶよう誠一を誘います。誠一は、1940年(昭和15年)小学校卒業と同時に上京。栗原が設立した日本刀鍛冶伝習所に入門し、鍛錬を積みながら、軍刀の鍛刀にも従事します。

東京で終戦を迎えた誠一は郷里・新潟に戻り、1954年(昭和29年)に文化財保護委員会より作刀の認可を得ると、昭次と名乗り本格的な作刀を始めます。そして同年、昭次は財団法人日本美術刀剣保存協会が主催した作刀技術発表会に出品し、優秀賞を受賞しました。

その後、昭次は鎌倉・室町時代に作刀された数々の名刀に迫る優れた日本刀を作るべく、自家製鉄の研究に取り組むとともに、同時期の相州伝をはじめとする様々な流派の技術を学び研鑽を重ねます。

以降も意欲的に作刀を続けた昭次は、その生涯で3度の正宗賞に輝き、1973年(昭和48年)から3度に亘って「伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀」を鍛刀。1997年(平成9年)には人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定され、2013年(平成25年)、惜しまれつつこの世を去りました。

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