※この写真は桑名市博物館様からご提供いただいております。
-
- 鑑定区分
- -
-
- 時代
- 室町時代
-
- 制作国
- 伊勢国
-
- 刀工
- 千子村正(二代)
三重県桑名市にある「桑名市博物館」の歴史について、ご紹介します。
桑名市立博物館は、1971年(昭和46年)に「桑名市立文化美術館」として産声を上げました。1985年(昭和60年)に増築され、三重県初の市立博物館となる「桑名市博物館」としてリニューアル。江戸時代に老中として「寛政の改革」を行なった「松平定信」(まつだいらさだのぶ)に関連する史料や、桑名出身の豪商「沼波弄山」(ぬなみろうざん)を始祖とする「古萬古」(こばんこ)、「萬古焼」(ばんこやき)に加え、地元の民俗資料や桑名に関連した浮世絵など市民の方々が寄贈された作品を中心に収蔵・展示しており、桑名の歴史を学ぶことができる博物館です。
桑名は、東海道42番目の宿場として栄え、室町時代には商人の自治区(楽市楽座)として堺(大阪)、博多(福岡)と並ぶほど、国内屈指の港を有していました。東西文化の交差点とも言える桑名で、江戸時代に生みだされた萬古焼は、三重県を代表する焼き物。2016年(平成28年)に行なわれた「伊勢志摩サミット」で、各国首脳が乾杯したときにも萬古焼の器が用いられていました。萬古焼の名前の由来は萬古焼の始祖・弄山がその作品に、後世にまで受け継がれるようにと願いを込めて「萬古不易」(ばんこふえき)の印を押したことから来ています。弄山の死後、一時生産が途絶えたこともありましたが、現在も生産され続けています。萬古焼は、昔と今の桑名をつなぐ存在であるとも言えます。
桑名ゆかりの日本刀の刀匠と言えば、妖刀伝説で有名な村正です。その作刀の地は桑名で、室町時代中期頃から活動していたとされています。千手観音の申し子を自称したことから、別称「千子村正」(せんごむらまさ)と呼ばれていました。村正の中でも名工と名高い初代村正の父は、美濃の刀工「赤坂左兵衛兼村」(あかさかさへえかねむら)。師は山城伝の名工「平安城長吉」(へいあんじょうながよし)です。村正ブランドは江戸時代初期まで続き、江戸時代になると「千子」と称するようになりました。
村正の名を世に知らしめているのが、徳川家康をはじめとした徳川家(松平家)とのかかわり。家康の祖父松平清康(まつだいらきよやす)、父松平広忠(まつだいらひろただ)に対する謀反で2人の命を奪い、さらには家康の嫡男松平信康(まつだいらのぶやす)が切腹の際、介錯(かいしゃく)で使われたのも村正でした。また、大坂の役で家康本陣に迫った真田信繁(さなだのぶしげ)が紀州・九度山から大坂城に入城した際に手にしていたのも、村正だと伝えられています。
このような経緯から、村正は徳川将軍家に災いをもたらす日本刀として忌避されていたのです。このことから「妖刀・村正伝説」と呼ばれ、江戸時代では周知されていました。幕府に相対する立場の大名は、密かに村正を入手していたとの噂もあります。このように、村正は単なる武器の枠を越え、精神性も帯びていたのです。村正は「五箇伝」に属さない「脇物」(わきもの)の日本刀ですが、その伝説も相まって、存在感は、日本刀ファンの心を掴んで離さない名刀だと言えます。
桑名市博物館の収蔵作品をご紹介します。
※展示内容は時期によって異なります。
※この写真は桑名市博物館様からご提供いただいております。
桑名市博物館の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認いただけます。
ホームメイト・リサーチの旅探「博物館/美術館」では、桑名市博物館の詳細情報とユーザーからの口コミ、施設写真、施設動画の投稿情報をご覧いただけます。
※ご投稿いただくには、ホームメイト・リサーチへのユーザー登録が必要です。
三重県の日本刀関連施設
三重県にある日本刀関連施設をご紹介します。