戦国時代に武士たちの間で流行した「茶道」について、詳しく解説しています。 茶の湯は日本の伝統文化のひとつ。名だたる戦国武将たちも熱中していたと伝わり、なかでも織田信長は、茶人から高価な茶道具を買い取る「名物狩り」をした人物だと知られています。 「戦国時代と茶道」では、歴史はもちろん、「千利休」「古田織部」をはじめとした著名な茶人、お茶に用いられる道具の種類など、茶道に関する知識をまとめました。戦国時代を「お茶」の面から深掘りしたい方、茶の湯を幅広く学びたい方におすすめです。
「茶道」あるいは「茶の湯」とは、日本が誇る伝統文化のひとつです。茶を点てて相手にふるまう行為は、一種の儀式であり作法があります。「茶道」や「茶の湯」と言う単語は知っているけれども、実際にどのようなものか具体的に把握できている人は少ないでしょう。茶道または茶の湯の起源や種類について触れながら、数多く存在する流派のなかでも、「表千家」、「裏千家」、「武者小路千家」といった「三千家」(さんせんけ)が、どのようなものなのかについて、詳しくご紹介します。
茶道は茶の点(た)て方、いただき方、お辞儀の仕方からあらゆる動作まで、様々な作法が決められています。これらは亭主が客人をもてなすため、そして客人が茶をおいしくいただくためにできたルールです。しかし、茶道の作法は、初めから厳格に決められていた訳ではありません。伝統文化として確立される以前の茶道には、現代の茶道とは違う楽しみ方がありました。日本で古くから親しまれている茶道の起源をたどりながら、茶道が成立するまでの歴史を解説します。
お茶は、私達の毎日の生活に欠かせない物となっていますが、それはいつごろからのことなのでしょうか。日本文化のひとつとして確立された茶道。茶道の歴史を見ていきながら、日本人がお茶とどう付き合ってきたのかについて紐解いていきましょう。
「茶道」(さどう・ちゃどう)とは、客人にお茶を点(た)てて振る舞い、おもてなしをする行為です。日本において、古くから続く伝統の芸道であり、「茶の湯」(ちゃのゆ)という名でも知られています。茶道は日本人の精神性を重んじる行為で、茶室、しつらえ、茶道具、作法などから形成される総合芸術として、現代まで歴史を紡いできました。日本の「おもてなし精神」に通ずる茶道の歴史について詳しく解説します。
茶道とはお茶をたしなみ、茶道具を鑑賞するだけのものではありません。茶事に招かれたら、「茶室」に向かう小路からすでに茶事が始まっているのです。この小路のことを「茶庭」(ちゃてい)あるいは「露地」(ろじ)と呼び、俗世から茶室という清浄な空間に入る前に、心身を清める儀式的な場所という意味がありました。そのため、茶庭に置かれた石などの一つひとつに意味があり、茶庭が単なる通路ではないことを表しています。茶庭の構造と、それぞれの意味について解説します。
懐石料理を伴う正式な茶事でも、簡略化された茶会でも、必ずお茶と共に振る舞われるのが「茶菓子」。茶道では、お茶と茶菓子は切り離せない関係にあります。茶道を習い始めた理由として、「おいしい和菓子をいただきたかったから」と挙げる人も多いほど。茶席で出される茶菓子は、味はもちろん、色、形、菓子器への盛り付けまで、そのすべてに招待客をもてなそうという亭主(ていしゅ:茶事の主催者)の思いが満ちあふれています。そんな茶菓子の歴史、種類、菓子器などについて説明します。
「抹茶」(まっちゃ)とは茶の種類ではなく、「碾茶」(てんちゃ:蒸した緑茶を乾燥させた物)の粉末を指します。「茶道」で飲用として用いられる他、現在では和洋菓子、料理の素材としても使用。お茶の発祥は、中国の雲南省(うんなんしょう)、四川省(しせんしょう)一帯で、2,000年以上前から嗜好品として親しまれ、8世紀後半に書かれた世界最古の茶について記した書物「茶経」(ちゃきょう)には、茶の起源、栽培方法、製法、飲み方、効能などが紹介されています。お茶は12世紀になって日本へ伝わり、独自に進化し抹茶として日本人の生活の中に定着。抹茶の歴史と製法、そして現在の日本における抹茶の2大産地について紹介します。
「茶道文化検定」とは、日本人の精神性に深く根ざしてきた「茶の湯」、「茶道」の文化を体系的に学ぶための検定です。そのため、茶を点(た)てる手順、作法である「点前」(てまえ)に関する出題はありません。一方で、美術、工芸、建築、庭園など、幅広い側面から茶道文化に関する本質的な知識、哲学までを扱うため、流派及び茶の湯の経験などに関係なく、日本文化に興味を持つ人々が身に付けるべき教養と言えます。茶道文化検定に関する簡単な紹介と、受検の流れなどについて説明します。(内容はすべて令和3年度のもの)
今日、茶道具とは文字通り「茶」の湯で使う「道具」です。しかし、安土桃山時代から江戸時代にかけて、茶道具は権力の象徴でした。合戦の際、宿敵の「織田信長」から「茶道具を差し出せば命は助ける」と言われるものの、それを拒んで茶道具ごと自爆して果てた「松永久秀」(まつながひさひで)の例もある通り、戦国武将の多くは、優れた茶道具のために命がけで戦っていたのです。そして今日、彼らが命がけで守り抜いた茶道具は、全国の美術館などに保管され、観ることができます。ときには、先人達が大切にしてきた茶道具を眺め、彼らの想いを間近に感じてみるのも悪くありません。茶道具の名物を所蔵している代表的な美術館を紹介します。
茶道では、お茶を点(た)てることを「点前」(てまえ)と呼びます。これら一連の動作を分解して、動作ごとに稽古を行うことを「割稽古」(わりげいこ)と言い、茶道における修練と言えば、そのほとんどが点前の反復練習だとされるほど、点前は茶道にとって重要な要素。しかし、重要な要素であるがゆえに、流派によって多少の違いがあるのも事実。逆に言えば、点前の作法の違いこそが、流派の違いと言っても過言ではありません。「裏千家」(うらせんけ:茶の湯を確立した[千利休:せんのりきゅう]の血脈を継ぐ[三千家:さんせんけ]のひとつ)を例に、「薄茶」(うすちゃ)の点前の作法を紹介します。
千利休(せんのりきゅう)は、「茶道(茶の湯)」を確立した人物として有名ですが、茶道を通じて織田信長や豊臣秀吉の側近となり、政治的影響力を持った人物としても有名です。千利休は、豊臣秀吉の 逆鱗に触れて切腹を命じられ、無念の生涯を閉じますが、千利休による茶道の教えは、今もなお受け継がれています。ここでは、現代の日本茶道の源流である「茶の湯」を確立した「千利休」について、詳しくご紹介します。 千利休千利休の生い立ちや人物像、実力者の実績などの詳細をご紹介します。
極端な愛妻家であったことで知られる戦国武将「細川忠興」(ほそかわただおき)。愛妻が主君の仇の娘という複雑な立場であったにもかかわらず、戦乱の世を生き延び、肥後細川家を現代まで存続させた政治的手腕の持ち主です。また同時に、細川忠興は、茶の湯をはじめとする風流人の一面があることでも有名な人物。ここでは、茶人として名を馳せた細川忠興に焦点を当て、生涯と共にご紹介します。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将「古田重然」(ふるたしげなり)に聞き覚えがない人も、茶の湯を大成した茶人「古田織部」(ふるたおりべ)にはピンと来るかもしれません。「古田織部(古田重然)」は、「千利休」(せんのりきゅう)の弟子として茶の道に精進し、茶器や会席具、作庭に至るまで、「織部好み」とも称される茶の湯の流行を作り上げた人物です。形や模様の斬新さで知られる陶器「織部焼」も、古田織部(古田重然)の指導により誕生しました。近年は、「へうげもの」と言う人気漫画の主人公として登場し、その名を目にする機会が増えているでしょう。ここでは、千利休の後継者と目された一方で権力者の勘気を被り、無念の死を遂げた古田織部(古田重然)の生涯や逸話、茶人としての活躍などをご紹介します。
「織田有楽斎」(おだうらくさい:織田長益[おだながます])は、戦国時代、一際鮮烈に名を残した「織田信長」の弟。幼い頃の記録がほとんどないため、半生は謎に包まれています。兄と比べると地味な印象を受けますが、兄・織田信長が大きな関心を示した茶の湯に通じ、茶道「有楽流」の始祖となるなど、文化人として名を成しました。文化人・織田有楽斎(織田長益)の、茶人としての活躍に注目をして、ご紹介します。 織田有楽斎(織田長益)織田有楽斎(織田長益)のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。 織田有楽斎(長益)と国宝・有楽来国光にまつわるエピソードをまとめました。
近江(現在の滋賀県)、伊勢(現在の三重県北中部)、陸奥(現在の福島県)と3つの地域で城主を務めた「蒲生氏郷」(がもううじさと)は、文武両道の名将として知られています。天下人「織田信長」や「豊臣秀吉」からの信望も厚く、一代で6万石から92万石の大名へと躍進。また、「千利休」(せんのりきゅう)の高弟7名に数えられるほど、茶の湯においてもその才能を開花させています。まさにエリートのようですが、幼少時は人質の立場になるなど、苦労がなかった訳ではありません。蒲生氏郷の生涯を追っていきましょう。
戦国時代には「茶道」、いわゆる「茶の湯」を嗜んでいた武将が大勢いました。そのなかでも、巨匠「千利休」(せんのりきゅう/せんりきゅう)の門下に入り、師の没後も茶の湯を受け継いで後世に伝えたのは、「利休七哲」(りきゅうしちてつ)と称される7名の高弟達です。この7名の顔ぶれは、時代や茶書などの史料によって微妙に異なっており、さらに3名の武将を加えて「利休十哲」(りきゅうじってつ)と呼ぶこともあります。千利休の曾孫「江岑宗左」(こうしんそうさ)による著書、「江岑夏書」(こうしんげがき)に基づき、同書に記されている7名の武将達を含めた千利休の高弟10名について、それぞれの人物像に迫っていきます。
茶道には、「有楽流」(うらくりゅう)という流派があります。この有楽流を開いたのは、「織田信長」の実弟「織田長益」(おだながます:のちの織田有楽斎)で、流派の名は、織田長益が「有楽」(うらく)と号していたことに由来しています。また、現在の東京都千代田区にある「有楽町」の名は、織田長益の江戸屋敷がこの地にあったことによるものです。この織田長益が編み出した茶道・有楽流の作法や、その人物像、有楽流がたどった歴史などを紐解いていきます。 織田有楽斎(織田長益)織田有楽斎(織田長益)のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。 織田有楽斎(長益)と国宝・有楽来国光にまつわるエピソードをまとめました。
「古田重然」(ふるたしげなり:のちの古田織部)は、「千利休」から茶の湯の世界を学びました。この古田重然は、戦国時代から江戸時代初期に活躍した武将ですが、「古田重然」よりも「古田織部」の名前の方がよく知られています。また、「侘び寂び」(わびさび)を真髄とする師・千利休の茶とは異なり、古田重然は大胆かつ動的な意匠を取り入れたデザインを好む人物でした。 「織部好み」とも称される茶の湯の流行を作り上げた一方で、茶の湯の大成者として茶道の流派を興します。これが、ここでご紹介する「織部流」(おりべりゅう)です。織部流を作り上げた古田重然の生涯と、茶の道の作法や茶室のありようなどについて紐解いていきましょう。
「三斎流」(さんさいりゅう)とは、江戸時代前期に興された、「細川三斎」(ほそかわさんさい:細川忠興[ほそかわただおき])を流祖とする武家茶道の一派です。島根県出雲市に家元があり、現在まで続く三斎流の特徴や、三斎流が興った経緯と発展、流祖・細川三斎(細川忠興)についてご紹介します。
戦国時代、茶の湯を嗜むことは一種のステータスとなり、数寄者と呼ばれる文化人のみならず、武将達の間でも茶の湯が流行。このことから、茶道に秀でた戦国大名自らが家元となる「武家茶道」が開かれます。その武家茶道の中でも代表格とされるのが、江戸時代初期からの歴史を持つ「遠州流」(えんしゅうりゅう)です。ここでは、武家茶道を牽引した「遠州流」についてご紹介します。
戦国時代は、全国で勇猛な戦国武将達が戦いに明け暮れた時代というイメージがあります。しかし実際のところ、ほとんどの戦国武将は茶の湯をたしなむ一流の教養人でした。当時、キリスト教の布教のために日本に来ていた宣教師「ルイス・フロイス」も、祖国ポルトガルに宛てた手紙の中で「織田信長」を「茶道具」好きと紹介しているほど。とは言え、彼らにとって茶の湯は単なる趣味ではありません。茶道具は権力の象徴であり、茶会はその権力を誇示して交渉を行う場でした。織田信長はじめ「豊臣秀吉」、「千利休」(せんのりきゅう)以外にもあまた存在した「武将茶人」、及び江戸時代に「大名茶」(別称[武家茶道])を興して定着させた「大名茶人」をご紹介します。
天下布武を目指した戦国武将「織田信長」は名立たる武勇だけでなく、実は茶の湯の隆盛に大きな功績を残しています。それまで京都、堺で盛んであった茶の湯を武家の儀礼として取り入れ、政治に活用しました。この政策は、「御茶湯御政道」(おちゃのゆごせいどう)と呼ばれます。また、全国から優れた茶器を召し上げる「名物狩り」を行い、集めた名器を使って他の戦国武将、公家などとの交渉を行いました。織田信長から始まった茶の湯を中心とする政治体制は、やがて「豊臣秀吉」らに受け継がれ、今日の茶道へとつながっていくのです。
「織田信長」の夢を受け継いで、天下を統一した「豊臣秀吉」の政策は、基本的に織田信長の方針を受け継ぎ、発展させたものでした。例えば「茶の湯」に関しても、織田信長が優れた茶器を収集し、家臣に与えることで支配するという政治の道具として用いましたが、豊臣秀吉もその方針を受け継ぎ、茶の湯を政治の道具として使っています。しかし豊臣秀吉の場合、同時に自分の権力をアピールするという目的でも、茶の湯を活用しました。豊臣秀吉にとって茶の湯とは、まさに政治的なパフォーマンスなのでした。
戦国時代は、全国で勇猛な戦国武将達が戦いに明け暮れた時代というイメージがあります。しかし実際のところ、ほとんどの戦国武将は茶の湯をたしなむ一流の教養人でした。当時、キリスト教の布教のために日本に来ていた、宣教師「ルイス・フロイス」も、祖国ポルトガルに宛てた手紙の中で、「織田信長」を「茶道具」好きと紹介しているほど。とはいえ、彼らにとって茶の湯は単なる趣味ではありません。茶道具は権力の象徴であり、茶会はその権力を誇示して交渉を行う場でした。織田信長はじめ「豊臣秀吉」、「千利休」(せんのりきゅう)以外にもあまた存在した、武将茶人を紹介します。
日本における「侘茶」(わびちゃ:簡素さと静けさを重視する茶の湯)を確立させたのは、「千利休」(せんのりきゅう)でした。しかし千利休の茶の湯は、やがて3つの流派に分かれます。これは、千利休の血脈を継ぐ3つの家という意味で、「三千家」と呼ばれました。なかでも「表千家」(おもてせんけ)は、千利休の「庵号」(あんごう:公益に尽くした者に与えられる特別な戒名)を冠した茶室「不審庵」(ふしんあん)を受け継ぐ、直系の家筋。表千家の主な特徴と概要、歴代の家元などを紹介します。
室町時代の後期、武家を中心に大流行した茶の湯。そこに日本独特の美意識を取り入れ、「侘茶」(わびちゃ:簡素さと静けさを重視する茶の湯)を確立させたのは、「千利休」(せんのりきゅう)です。千利休の茶の湯は、やがてその子孫によって3つの流派となって受け継がれていきました。これを「三千家」(さんせんけ)と呼びます。そのなかでも、今日「表千家」(おもてせんけ)と並んで日本の茶道界の双璧をなす「裏千家」(うらせんけ)について、主な特徴と概要、歴代の家元などを紹介します。
「千利休」(せんのりきゅう)が確立した茶の湯は、千利休の3人のひ孫によって3つの流派に分かれました。3人とは、「表千家」(おもてせんけ)を興した「江岑宗左」(こうしんそうさ)、「裏千家」(うらせんけ)を興した「仙叟宗室」(せんそうそうしつ)、そして「武者小路千家」(むしゃのこうじせんけ)を興した「一翁宗守」(いちおうそうしゅ)です。彼らが興した3つの流派は、千利休の茶の伝統を受け継ぐ家系であるため、「三千家」(さんせんけ)と呼ばれます。武者小路千家について、主な特徴と概要、歴代の家元などを紹介します。
茶道の流派と言えば「表千家」(おもてせんけ)、「裏千家」(うらせんけ)、「武者小路千家」(むしゃのこうじせんけ)の「三千家」(さんせんけ)が有名ですが、日本には他にも500近い流派が存在するとされます。流派が違えばお点前の作法は違いますし、使用する道具も変わります。しかし、茶の湯の基本である「客をもてなす心」は変わりません。こうした茶道の流派のひとつで、愛知県名古屋市を中心に展開する「松尾流」(まつおりゅう)について、概要や歴史、作法などを紹介します。
茶道を楽しむのであれば、野点(のだて)もいいのですが、せっかくなら茶室で侘び寂び(わびさび)を感じながら楽しみたいものです。「茶室」は、亭主が客を招いて茶を出してもてなすことに特化した部屋のこと。茶の湯同様に非常に歴史が深く、茶室と言っても形式がいくつかあるのです。そんな茶室の起源や種類、そして茶室を構成する要素などについて、詳しくご紹介します。
「待庵」(たいあん)は、茶聖と呼ばれた「千利休」が作ったとされる茶室です。現在の茶室の原点としての形式が随所に見られ、千利休の卓越した才能を感じることができます。文化人として名を馳せながら、悲劇的な運命をたどった千利休。「待庵」には、千利休のお茶への並々ならぬ思いが、独創性として込められています。最古の茶室として、国宝に指定されている「待庵」について、詳しく見ていきましょう。
日本に多くの茶室がありますが、国宝に指定されているのは、京都山崎「妙喜庵」内の「待庵」、「大徳寺 龍光院」内の「密庵」と愛知県犬山市の有楽苑にある「如庵」(じょあん)の3つのみです。この3つの茶室は、「国宝茶席三名席」(こくほうちゃせきさんめいせき)と呼ばれる、貴重な建物ですが、今回はそのなかでも独創的な工夫が凝らされた茶室として有名な如庵の魅力について解説します。 織田有楽斎(織田長益)織田有楽斎(織田長益)のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。 織田有楽斎(長益)と国宝・有楽来国光にまつわるエピソードをまとめました。
日本には、国宝に指定された茶室が3つあります。日本最古の茶室にして、「千利休」(せんのりきゅう)作とされる唯一のお茶室「待庵」(たいあん)と、「織田有楽斎」(おだうらくさい)作の「如庵」(じょあん)、そしてここで紹介する「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)作の「密庵」(みったん)です。どの茶室も簡単に見学することができませんが、そのなかでも特に、密庵は「見るのが日本でいちばん難しい国宝」として有名。そんな密庵への憧れをこめ、密庵の歴史や、茶室としての特徴などを解説していきます。
「茶の湯」(ちゃのゆ)とは、単にお茶をふるまうだけの行為ではありません。茶の湯とは、遠い山道に見立てた「露地」(ろじ:茶室に続く日本庭園)を歩いてきた客が、俗世を離れて清浄な「茶室」(ちゃしつ)にたどりつき、「亭主」(ていしゅ:茶会の主催者)から心行くまでのおもてなしを受けるという総合的な体験のこと。そのため、茶室という小さな空間にも、そのしつらえの一つひとつに客をもてなすための意味があるのです。茶室の歴史とともに、そんな茶室の各部分に込められた意味について解説します。
茶道に興味をもって様々なことを調べていくと、かなり多くの茶道具があることに気が付くことでしょう。お茶を点てたり、茶席に招かれたりする場合には、茶道具の名前を知っていると、より楽しくお茶をいただくことができるはず。お茶を点てるための茶道具や、茶室に飾る茶道具などについて詳しくご紹介します。
茶道で用いる茶碗には、たくさんの種類があり、その美しさに魅了される人が少なくありません。日本で作られた茶碗を「国焼」(くにやき)と言いますが、「楽焼」(らくやき)、「萩焼」(はぎやき)、「唐津焼」(からつやき)など種類が豊富。国焼にはどのような歴史や特徴があるのかを詳しくご紹介します。
鎌倉時代になると、それまで貴族の間で嗜まれていた「喫茶」が、武士にも浸透します。そこで、器である茶碗(唐物)に注目。茶碗(唐物)は贅沢な輸入品として羨望され、所持することがステータスとなり、安土・桃山時代には武士の褒賞にもなっていったのです。茶碗(唐物)にはどんな歴史があり、どんな種類があるのかを詳しくご紹介します。
茶の湯において、提供されるお茶は2種類あります。それは「濃茶」(こいちゃ)と「薄茶」(うすちゃ)。これに合わせて、茶入(抹茶の粉を入れる容器)も、「濃茶器」と「薄茶器」の2種類が用意されています。特に、濃茶器は、戦国武将「織田信長」が褒賞品として重んじた、とても格式が高い茶道具。茶入の歴史や種類について、詳しくご紹介します。
「茶釜」(ちゃがま)とは、お茶を楽しむのに欠かせない湯を沸かすための茶道具です。中国から伝わり、日本で改良されました。茶釜には、「炉用」と「風炉用」があり、季節に合わせて、使い分けて楽しむことができます。湯をくみ、柄杓を扱う所作は、美しいかぎり。茶釜の歴史や種類、鉄瓶との違いや基本的な使い方、お手入れ方法までを詳しくご紹介します。
「茶杓」(ちゃしゃく)とは、茶入(ちゃいれ)から抹茶をすくい、茶碗に移すときに用いる道具。もともと茶道の世界では、抹茶を別の場所で点ててから客のもとに運んでいたため、茶杓に注目が集まることはありませんでした。しかし「千利休」(せんのりきゅう)によって、客前で点前(てまえ:お茶を点てること)を行うことが一般的になってから、茶杓は茶道具として重要な位置を占めるようになったのです。茶杓の材料や呼び名などの基本的な知識から、その扱い方、さらに自作方法、名器まで幅広く紹介します。
「花入」(はないれ)とは、文字通り花を入れて茶席に飾る茶道具。歴史的に見れば、日本の伝統的建築である「書院造」(しょいんづくり:室町時代に誕生した、簡素な武家屋敷の建築様式)では、床の間には掛物(かけもの:書や絵画)を飾り、そこに花を添えることは当然のしきたりとされていました。しかし、安土桃山時代に「千利休」(せんのりきゅう)が花入に入れた花を、掛物のように床の間の壁に掛けたことで、花入は掛物と同じ鑑賞効果を持つ茶器とみなされるようになります。その後、「古田織部」(ふるたおりべ)が花入の傑作を数多く作り出したことで、花入はますます茶席において存在感を高めていきました。
「棚物」(たなもの)の由来は、「台子」(だいす:茶の湯で用いられる四本の柱を持つ棚)です。この台子が茶の湯に用いられ、「水指」(みずさし:茶席で使用する水を蓄えておく器)、「茶入れ」、「羽箒」(はぼうき)、「柄杓」(ひしゃく)などの茶道具を置くための棚として使われるようになりました。棚物は、大別すると「大棚」(おおだな)、「小棚」(こだな)、「仕付棚」(しつけだな)に分かれ、それぞれが使う季節や大きさ、形など、様々な形式に分かれます。そんな多彩な棚物の種類について紹介します。
茶の湯は、単にお茶の味わいを楽しむだけではなく、和菓子はもちろん、掛物(かけもの)、花入(はないれ) の美しさを愛で、何より亭主(ていしゅ:茶席の主催者)のおもてなしを感じることが大切とされます。茶席は、五感で楽しむものであり、不可欠なのが香り。茶席にほんのりと漂う、清浄で落ち着いた香りは、茶室に招いた客をさわやかな気分でお迎えしたいというおもてなしの心の現れであり、客をリラックスさせるという効果もあります。そして、この香りを演出してくれるのが「香合」(こうごう)。香合の基本的な使い方、種類などについて、簡単に解説します。
茶道は、亭主が客人を招いて茶をもてなすために専用の茶室で行われます。この茶室は茶道とともに発展してきた日本の伝統建築です。茶道で作法が決められているように、茶室建築にも様々な決まりがあり、客人が茶室に入るための通路には「露地」(ろじ)と呼ばれる庭園が造られてきました。「茶庭」(ちゃてい/ちゃにわ)とも呼ばれている露地は、もともと「路地」と表記されていましたが、江戸時代に仏教用語を用いて「露地」と称されて以来、茶庭の雅称(がしょう:雅な呼び方)として定着したと言われています。
茶室に付随する茶庭(ちゃてい/ちゃにわ)を意味する「露地」(ろじ)には、古くからいくつかの形式があります。露地は侘茶(わびちゃ:豪華な茶の湯に対して、簡素で静かな精神性を重んじる様式)の成立とともに構成が工夫されるようになり、戦国時代から江戸時代前期にかけて発展を遂げました。当時の露地は時代ごとに各茶人の個性が色濃く反映される場所でもあり、大名茶人の活躍によって露地の規模や構成にも変化が見られるようになります。このような展開から、露地にもいくつかの形式が誕生するようになったのです。
古くから日本では様々な庭園が造られてきましたが、現代において日本庭園には「三大様式」と呼ばれる3つの有名な様式があります。室町時代、茶の湯(ちゃのゆ)の発展とともに生み出された「露地」(ろじ)も、三大様式のひとつです。露地を含む日本庭園の三大様式と、他の様式とは異なる露地の特長と魅力、世界的に有名な5つの露地庭園について見ていきましょう。
焼き物の代名詞でもある「せともの」という言葉は、愛知県瀬戸市の「瀬戸焼」(せとやき)からきています。日本で初めて「釉薬」(ゆうやく/うわぐすり:素焼きの陶磁器の表面にかけるガラス層)を使用したのが瀬戸焼で、日本の焼き物は瀬戸から始まったと言っても過言ではありません。良質の土、陶工の優れた技術、時の権力者達による手厚い保護などの好条件が重なり、瀬戸焼は常に日本の陶磁器産業をリードしてきました。その歴史は、茶道の歴史とも深いかかわりがあります。1,000年もの間、一度も釜の炎を絶やすことがなかった瀬戸。そこには、焼き物の町ならではの文化や風景が点在します。
「常滑焼」(とこなめやき)は、愛知県の知多半島にある常滑市で作られる焼き物。現存する日本最古の窯場(かまば)で、その由来は平安時代に遡ります。また、常滑焼と言えばすぐに思い出すのは、煎茶(せんちゃ)道具に欠かせない赤茶色の急須ですが、もともと常滑は甕(かめ)、壺など大きな焼き物を得意としていました。海運に恵まれたこともあり、中世から常滑焼は全国に流通。江戸時代以降には近代産業、生活を支える土管の生産が盛んになりました。起伏に富んだ常滑の町は、役目を終えた土管、酒瓶で飾られた坂、崖が多く見られ、焼き物の里らしい独特の景観を作っています。
「御深井焼」(おふけやき)は、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の名古屋で生産された焼き物のひとつ。江戸時代初期に尾張徳川家の庇護を受け、「名古屋城」(愛知県名古屋市)城内の「御深井丸」(おふけまる)の窯で焼かれたことが名前の由来です。江戸時代には、支配層や富裕層が自らの庭に窯を築いて焼き物を作ることが流行し、「御庭焼」(おにわやき)と呼ばれました。御深井焼はこの御庭焼の典型であり、公的な贈答品から城内の調度品、さらには家臣への褒美まで大量に生産されたのです。200年を超える歴史のなかで衰退と復興を繰り返しながらも、御深井焼は幕末まで脈々と焼き継がれていきました。
安土桃山時代に生まれた「織部焼」(おりべやき)は、戦国武将で茶の湯を牽引した「古田織部」(ふるたおりべ)に由来します。織部焼は、ユニークな造形に斬新な絵柄が特徴で、それまで好まれた端正で慎ましい味わいの茶道具に反発するかのような、迫力と大胆さに満ちていました。織部焼が作られたのは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのわずか30年ほどに過ぎません。しかし、常識にとらわれない独自の美意識を持つ古田織部の人物像を反映した茶道具、食器は、「織部好み」(おりべごのみ)と言われ、人々の心をとらえました。現代においても日本を代表する焼き物のひとつとして、多くの作品が重要文化財に指定されるなど、骨董愛好家はもとより料理家など幅広い人々を魅了しています。
「犬山城」(いぬやまじょう:愛知県犬山市)で知られる愛知県犬山市は、城下町の面影を色濃く残す、近年人気の観光地。ここで生まれた「犬山焼」(いぬやまやき)は、尾張国(おわりのくに:愛知県西部)地方の焼き物の中でも、一際色彩に富んだ華やかな焼き物です。誕生は、約300年前とされますが、正確なところは分かりません。犬山城主「成瀬家」(なるせけ)の保護を受け、犬山焼が最も盛えたのは、江戸時代中期から末期。時代の流れに翻弄されながらも、伝統工芸として現在まで継承されてきました。犬山焼の代名詞とされる「雲錦手」(うんきんで)、「赤絵」(あかえ)の色鮮やかな文様は、時代を超えて観る人の目を楽しませます。
茶の湯や茶道の世界をのぞいてみたいなら、映画から入るのもおすすめです。映像を通じて、修練の緊張感や、歴史上の茶人達が味わったとされる茶の湯の空気を感じられるだけでなく、名物の茶道具を見られる作品もあります。茶の湯の達人を演じる俳優達の流れるような所作も注目のポイント。お点前(てまえ:茶を点てること)習得の参考になる他、日常生活に取り入れる楽しみ方もできます。茶道映画を代表する3作品を紹介いたします。
茶の湯文化や茶道は、たびたび漫画の題材として取り上げられています。「茶道に関心はあるが、茶会や体験教室に参加するのは少し敷居が高い」という人は、まずエンターテインメント作品の中で、その様子を垣間見てはいかがでしょう。漫画で茶道に触れる最大のメリットは、茶道の専門用語がビジュアルによって解説されるため、理解しやすいという点が上げられます。茶道を題材とした漫画から、3つの作品を紹介します。壮大なスケールの歴史漫画から、高校を舞台にしたコメディタッチな漫画まで、切り口、作風のバリエーションも豊か。紹介した物以外にも、茶道や茶道部を扱った漫画作品は多数あります 。気になる作品を通して、ぜひ茶道の世界に触れてみましょう。