本甲冑(鎧兜)は、旗本の屋形(やかた)池田家に伝来した復古調(ふっこちょう)の「胴丸」(どうまる)。屋形池田家は「池田輝政」(いけだてるまさ)の孫である「池田政済」(いけだまさなり)から始まり、江戸時代を通じて播磨国神東郡屋形村(現在の兵庫県神崎郡市川町屋形)に陣屋を構え、周囲の9村も含めた3,000石の知行所(ちぎょうしょ:領地)を支配しました。
本甲冑(鎧兜)は、ほぼすべての部位が「練革」(ねりかわ)でできた「革具足」(かわぐそく)で、各部に池田家の「揚羽蝶」(あげはちょう)紋を打ちます。幕末には、制作が比較的簡単で軽量な革具足の制作が流行し、本甲冑(鎧兜)も革の「小札」(こざね)を使います。「兜鉢」(かぶとばち)も革の板を半球状に成形し、表面を装飾して「筋兜」(すじかぶと)に見せかけます。
革は性質上、年月が経つと収縮や劣化を起こしやすく、変形してしまった革具足も見られますが、本甲冑(鎧兜)は制作が丁寧で保存も良好なため、当初の形がよく保たれています。
本甲冑(鎧兜)には「五」の字が書かれた「旗指物」(はたさしもの)が添います。これは、江戸幕府の役職「使番」(つかいばん)を示す物。幕末の屋形池田家では、10代目の「池田政和」(いけだまさかず)と11代目の「池田政樹」(いけだまさき)が使番を務めており、本甲冑(鎧兜)も2人の時期に作られた可能性があるのです。また、兜の揚羽蝶の「前立」(まえだて)に付く輪状の部品は、旗本や幕臣の合印(あいじるし)である「輪貫」(わぬき)です。
他には長持型の「鎧櫃」(よろいびつ)、「空穂」(うつぼ)、「陣笠」(じんがさ)2頭と「床几」(しょうぎ)が付属し、いずれも揚羽蝶紋があしらわれます。