油絵
明治時代
とうじょうしょうたろう「まつしまかんないのず」 東城鉦太郎「松島艦内の図」 /ホームメイト
本油絵は、1894年(明治27年)7月に開戦した「日清戦争」の終盤、清国の北洋艦隊が日本海軍に降伏した、歴史的瞬間を描いた貴重な作品です。
清国海軍軍使「牛昶昞」(ぎゅうちょうへい:画面左側手前の人物)と「程璧光」(ていへきこう:画面一番左の人物)が、日本海軍連合艦隊旗艦「松島」艦内を訪れ、降伏文書を手渡すところを描いています。画面中央・右で、文書を受け取ったのが、連合艦隊司令長官「伊東祐亨」(いとうすけゆき)。その左隣に座るのは、参謀少佐「島村速雄」(しまむらはやお)です。
日清戦争では、最大の海戦となった「黄海海戦」(こうかいかいせん)にて清国の北洋艦隊は主力艦5隻を失い敗北。しかし、北洋艦隊の残党は威海衛(いかいえい:現在の中国山東省の地名)へと逃れました。日本海軍はこれを追い、1895年(明治28年)1月に「威海衛の戦い」となったのです。日本軍は魚雷などで総攻撃し、清国軍の旗艦「定遠」が大破。日本軍の大勝利が決定的となりました。
ここで伊東祐亨は、かつて親交があった北洋艦隊提督「丁汝昌」(ていじょしょう)に降伏を勧める親書を送ります。しかし、丁汝昌は、親書に感謝しながらも服毒自決してしまうのです。これにより、牛昶昞が、代わりに降伏を決断し、降伏協定を結びました。
伊東祐亨は、丁汝昌の自決に驚きながらも、遺骸を清国に返すために尽力。商船「康済号」一隻を独断で提供し、礼砲を放つなど、最大の弔意を表しました。この対応が、美談として世界から称賛を浴び、日本が世界的な信用を得る契機となったのです。
本油絵を描いたのは、洋画家「東城鉦太郎」(とうじょうしょうたろう)。1865年(元治2年)、江戸(東京都)生まれ。明治時代に海軍従軍画家となり、「日清戦争」、「日露戦争」の戦況を数多く描きました。本作品は、日清戦争における旧海軍省海軍軍事普及部収蔵品として、海軍主催の博覧会に出品された1枚です。