広島県廿日市市の宮島にある厳島神社は、戦国時代には中国地方を統一した毛利氏から援助を受けて発展しました。本甲冑(鎧兜)も毛利氏から奉納された物で、「毛利輝元」(もうりてるもと)が奉納した「紅糸威丸胴具足」とともに制作年代の特定が可能な最初期の「当世具足」(とうせいぐそく)。重要文化財に指定されています。
本甲冑(鎧兜)の「胴」(どう)は、銀箔を押した「小札」(こざね)を白糸で縅した「丸胴」(まるどう)。室町時代に主流だった「胴丸」(どうまる)の流れを汲む、伝統を意識した形式で、同じ仕立ての「大袖」(おおそで)が合わさります。「胸板」(むないた)、「脇板」(わきいた)といった「金具廻」(かなぐまわり)は「梨子地塗」(なしじぬり:金銀の細かい粉を漆塗の表面にちりばめる漆工技法)の上に菊桐紋(きくきりもん)などが蒔絵(まきえ)であしらわれ、より華麗な印象が演出されています。
一方で「兜」(かぶと)は、孔雀の尾羽で飾った銀箔押の「烏帽子形兜」(えぼしなりかぶと)とする斬新な意匠で、当時の武将が持っていた自己顕示の欲求も感じさせます。
本具足は「毛利元就」(もうりもとなり)が奉納したと伝わりますが、厳島神社にある古文書の記録と照らし合わせると、毛利元就の孫で長府藩(現在の山口県下関市)初代藩主となる「毛利秀元」(もうりひでもと)が1598年(慶長3年)に納めた物と考えられます。