本甲冑(鎧兜)は、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に従って戦った「北畠顕家」(きたばたけあきいえ)の子孫として、中世に陸奥国最北部(現在の青森県)の津軽地方を治めた「浪岡北畠家」(なみおかきたばたけけ)に伝来した「胴丸」(どうまる)。室町時代の高級な胴丸を代表する1領で、重要文化財に指定されています。
本胴丸は、室町時代の上級大名に好まれた、胴を「兜」(かぶと)や「袖」(そで)と一揃いで制作した「三物完備」(みつものかんび)の形式。これは、鎌倉時代まで雑兵が主に着ていた胴丸が、戦いの変化で高級武将も使うようになり、重装化が進んだことを表します。
大切に保存されていたため傷みが非常に少なく、「絵韋」(えがわ)の図柄や「威毛」(おどしげ)の色彩をよく観察できます。特に威毛の大部分は、紺色の地に紅糸をつづら折りに組み込んだ珍しい配色の「組交糸」(くみまぜいと)。「総覆輪」(そうふくりん)の「筋兜」(すじかぶと)に打たれた長めの「鍬形」(くわがた)と、「桐唐草文様」(きりからくさもんよう)を丁寧に彫り込んだ「金物」(かなもの)が、本胴丸の格調をさらに高めています。
本胴丸は、室町時代末期に浪岡北畠家が「津軽為信」(つがるためのぶ)に滅ぼされた際、逃げ延びた者によって、縁戚関係があった出羽国北部(現在の秋田県)の「秋田家」(あきたけ)へもたらされます。以後、出羽国から三春藩(現在の福島県田村郡三春町)へ移った秋田家でも重要な家宝として受け継がれ、平成時代に秋田家から東京国立博物館へ寄贈されました。