本大鎧は、島根県出雲市に鎮座する「日御碕神社」(ひのみさきじんじゃ)が所蔵する名甲冑。制作水準の高さはもちろんですが、江戸時代に行われた修理が、当時においては先進的な方法で行われたことでも有名です。
本大鎧の全体的な形状には、馬上で弓矢を射かけ合う「騎射戦」(きしゃせん)に代わり、徒歩での戦闘が広まる鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての、過渡期的な特徴が表れます。「小札」(こざね)の幅は前代より狭くなり、胴のシルエットも源平合戦の頃のように裾を広げるのではなく、反対に絞り始めた様子を示します。
1805年(文化2年)、本大鎧は、松江藩10代藩主で茶人でもあった「松平治郷」(まつだいらはるさと:松平不昧[まつだいらふまい])の命で修理されました。その際、現状の保護と維持のため、古い部材を残しつつ、使用にたえない部品を別箱に納めて保存したり、補填した「威毛」(おどしげ)や「絵韋」(えがわ)、「金物」(かなもの)などには区別のため「文化二年修補」の文字を入れたりした他、修理を担当した甲冑師の「寺本喜市安宅」(てらもときいちあたか)にも詳細な修理記録を作成させるなどの方針で進められました。これらのことから、この修理は現代の文化財修理にも通じる点があると評価されているのです。
本大鎧は、江戸時代には「源頼朝」(みなもとのよりとも)が奉納したとされていましたが、上記のように形式が新しい時期の作を示すことと、各所に「花輪違」(はなわちがい)紋の据金物を打つことから、現在では、出雲国の守護であった「塩冶高貞」(えんやたかさだ)もしくは、その一族が納めたとも推測されています。