本大鎧は、かつて備中国(現在の岡山県)の旧家である赤木家に伝わっていました。平安時代に奉納用ではなく、実用の具として作られてから数百年にわたり、民間で保存されてきたという非常に珍しい経歴を持つ甲冑(鎧兜)です。近世以降の修理をほとんど受けておらず、初期大鎧の形態を知る上で重要な資料とされ、国宝に指定されました。
本大鎧の「小札」(こざね)は、縦3行に計19個の穴を空ける「三目札」(みつめざね)を使用。軍記物語に見える「敷目の鎧」(しきめのよろい)が、まさしく本大鎧のような三目札で仕立てた大鎧であったと考えられます。
「兜」(かぶと)は小ぶりで引き締まった「厳星」(いかぼし)の「兜鉢」(かぶとばち)に、大きく広がる「錣」(しころ)が付きます。錣は鎌倉時代末期の作と見られますが、これは時代ごとの戦いの変化に応じて改装した物と解釈できます。また、室町時代以降の補修がないのは、当時大鎧がついに実用性を失い、戦場で着られなくなったことを示すのです。
赤木家は最初、信濃国筑摩郡赤木郷(現在の長野県松本市)を本拠としましたが、1221年(承久3年)の「承久の乱」(じょうきゅうのらん)で鎌倉幕府に付き、戦後に恩賞として備中国川上郡穴田郷(現在の岡山県高梁市)を与えられ移住。戦国時代に毛利家の家臣となりますが、関ヶ原の戦い後に毛利家が長州藩へ移ると、赤木家はこれにしたがう者や帰農(きのう:武士をやめて農民になること)する者などに分かれました。本大鎧は帰農した方の赤木家に受け継がれ、現在は岡山県立博物館が所蔵します。