本刀が伝来したのは、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東南部)岡山藩の歴代藩主を務めていた「池田家」。備前国、及び備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県西部)の一部を治めていた外様の大藩です。1603年(慶長8年)、「池田輝政」(いけだてるまさ)の次男「池田忠継」(いけだただつぐ)が、わずか5歳で同藩28万石に封じられました。
1615年(慶長20年)、池田忠継が17歳の若さで跡継ぎなく没すると、弟の「池田忠雄」(いけだただかつ)が、淡路国(あわじのくに:現在の兵庫県淡路島)から入封。1632年(寛永9年)に池田忠雄が亡くなり、嫡男の「池田光仲」(いけだみつなか)が池田家の家督を継ぎましたが、幼少であったために岡山藩の統治は難しいとされ、因幡国(いなばのくに:現在の鳥取県東部)鳥取藩へ国替えをすることになります。これに伴い、「池田光政」(いけだみつまさ)が鳥取より岡山へ移封となり、以降明治維新の時代が到来するまで、池田宗家の治世が続いたのです。
本刀を制作した「来国次」(らいくにつぐ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて活躍した、山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)の名工。来国次は、「来国俊」(らいくにとし)の門人、あるいは「来国光」(らいくにみつ)の従兄弟であったと伝えられており、現存している作品には、太刀や打刀はあまり見られず、短刀や小脇差が数多く観られます。
のちに来国次は、鎌倉へと移住し、「相州伝」を創始したと伝わる名工「正宗」に師事。正宗の高弟とされた「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりに挙げられ、「鎌倉来」の呼称を持つ名工となったのです。
来国次の作風において最も大きな特徴が、相州伝の影響を強く受けていること。本刀は古い大磨上げであり、一見すると京物に思える本刀においても身幅(みはば)が広く、鋒/切先(きっさき)延びごころ、地刃の沸(にえ)が強い刃文(はもん)、地景(ちけい)が目立つ鍛えなど、相州伝の作風が随所に観られることから、来国次の作であることを極められるのです。
来国次の作品は、前述のように現存する太刀や打刀が少ないことから、本刀のように来国次極めの打刀は、非常に貴重な1振だと言えます。