本太刀は、鎌倉時代中期に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東部)で活躍した刀工「景依」(かげより)が鍛え、常州土浦藩(現在の茨城県土浦市)9万5,000石、土屋家に伝来した名刀です。
土屋家が歴史の表舞台に名を残したのは、1582年(天正10年)3月11日の「天目山の戦い」(てんもくざんのたたかい)でのこと。織田軍との戦いに敗れ天目山(山梨県甲州市)まで逃げ延びた「武田勝頼」(たけだかつより)とその手勢は、迫る織田軍を相手に奮戦します。このとき、武田勝頼の家臣「土屋昌恒」(つちやまさつね)は、崖縁で落ちないよう片手に蔦を絡ませて、片手で戦い続けたことから「片手千人斬り」の異名を取りました。
この土屋昌恒の子「土屋忠直」(つちやただなお)は「徳川家康」の側室「阿茶局」(あちゃのつぼね)に養育され徳川家に仕えます。そして土屋忠直の次男「土屋数直」(つちやかずなお)が常州土浦藩の初代藩主となり、藩は明治まで続きました。
本太刀を作刀した景依は、「長船派」の初代「光忠」(みつただ)の弟である「景秀」(かげひで)の息子です。本太刀は景依の特徴がよく表れた品格ある太刀姿が印象的。刃文(はもん)は備前正伝にはない直刃(すぐは)を基調としながらも丁子風の映りが見られ、匂本位の刃縁(はぶち)・刃中共よく締まり、帽子は長船系を示す「三作帽子」(さんさくぼうし)となっています。地鉄(じがね)は青く冴えて落ち着きがあり、やわらか味と奥ゆかしさが感じられる地肌です。