「太刀 銘 備州長船住景光」は、鎌倉時代末期に備前国(現在の岡山県東部)で活躍した刀工「長船景光」(おさふねかげみつ)が制作した太刀。
本太刀は、徳川宗家16代当主「徳川家達」(とくがわいえさと)が所有していた太刀です。徳川家達は、「徳川御三卿」のひとつ「田安徳川家」に生まれ、13代将軍「徳川家定」や14代将軍「徳川家茂」の血筋と近かったことから、将軍職の最有力候補として期待されていました。しかし、徳川家茂が20歳で没した当時、徳川家達はわずか4歳。幼い徳川家達に代わって15代将軍に任じられたのは「徳川慶喜」でした。徳川家達は、のちに明治政府から徳川宗家を継ぐように命じられ、徳川宗家16代当主になります。
本太刀は戦後、徳川家から離れる際、但し書きに「権現様より伝わる太刀」と記載されました。「権現様」とは、一般に「徳川家康」のことを指すため、本太刀は徳川家康の愛刀であったと推測されます。なお、本太刀には「鶴足革包研出葵紋散 御召鐺鞘 打刀拵」(つるあしかわつつみとぎだしあおいもんちらし おめしこじりさや うちがたなごしらえ)という拵が附属しており、この拵の鞘(さや)や頭(かしら:柄[つか]の先端部を保護する金具)には徳川家の家紋である「三つ葉葵」(みつばあおい)が入れられている点や、徳川家の名刀「武蔵正宗」の拵と、ほとんど同一の意匠である点などから、本太刀が徳川家伝来の刀であることは確かです。
制作者である景光は、古来、刀剣の産地として名高い備前国東部の吉井川流域に居住し、鎌倉時代に栄えた刀工一派「長船派」の名匠です。景光の祖父は、長船派の実質的祖である「光忠」(みつただ)。同じく父は、初代「長光」で、景光は「左兵衛尉」(さひょうえのじょう)と称し、鎌倉時代末期に活躍しました。長船派のなかで「もっとも地鉄(じがね)が美しい」と評された刀工であり、刀の他に薙刀(なぎなた)などの作が多く現存しています。
景光の作の特徴は、小板目肌がよく詰んでいる点や、刃文(はもん)に景光が創始したと言われる「片落ち互の目」(かたおちぐのめ)が表れる点。本太刀は、鎬造り(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)、腰反りは浅く、身幅(みはば)、長さ共に景光らしい1振です。地鉄は、景光の特色である小板目肌が細かに沸、乱映りが見られます。刃文は、小互の目乱れで、足、葉入る匂出来の作風。鍛えの良さでは先代である父・長光を凌ぐと評された景光の特徴がよく表れた1振です。