「実休光忠」(じっきゅうみつただ)とは、戦国時代における三英傑のひとり「織田信長」が所持していた太刀(たち)です。作刀したのは、数々の名刀を生み出した「長船派」(おさふねは)の始祖「長船光忠」(おさふねみつただ)。別名「備前光忠」(びぜんみつただ)とも呼ばれます。長船光忠の日本刀は刀身が長く、身幅も広く華やか。しかも頑強かつ斬れ味鋭い実戦用であるため、多くの戦国武将達に求められました。
実休光忠は、もともと近江国(滋賀県南部)の六角氏の家臣「三雲定持」(みくもさだもち)が所持。当初「三雲光忠」(みくもみつただ)とも呼ばれた実休光忠は、のちに愛刀家の戦国武将「三好実休」(みよしじっきゅう)の手に渡ったことから実休光忠と呼ばれるようになりました。1560年(永禄3年)に三好実休の討死後、「畠山高政」(たかばたけたかまさ)が実休光忠を入手し、織田信長へ献上したとされています。
1582年(天正10年)の「本能寺の変」(ほんのうじのへん)の際も、織田信長はこの実休光忠を取って戦ったという話が残されており、「本能寺」(京都市中京区:現在の本能寺跡)の焼け跡から焼身(やけみ)で発見されました。また、実休光忠は磨上げ(すりあげ)られておらず、目釘孔(めくぎあな)の少し上に「光忠」の二字銘(にじめい)が存在。本能寺の変における激闘のなかで付いたものなのか、18ヵ所もの切込み跡があったことが、江戸時代の名刀目録「享保名物帳」で記録されています。
のちに、焼身となった刀身は「豊臣秀吉」が主君・織田信長の形見として焼き直しをさせました。本来、大房丁子乱れ(おおふさちょうじみだれ)、物打(ものうち)は小乱れ(こみだれ)の刃文(はもん)だった実休光忠ですが、焼き直し後の刃文は、全体が同じ高低の丁子乱れです。なお、実休光忠は「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)による「大坂城」(現在の大阪城:大阪府大阪市中央区)の落城後、所在が不明となっています。