「二筋樋貞宗」と号する本刀は、もともと「豊臣秀吉」が所持していた打刀です。豊臣秀吉によって築城された「大坂城」(現在の大阪府大阪市)にあったことから、「大坂貞宗」と称されることもあります。
その後、「徳川家康」の次男であった「結城秀康」(ゆうきひでやす)が、11歳の頃に豊臣秀吉のもとへ養子として迎え入れられた際に、豊臣秀吉から本刀が下賜されたのです。そして、1595年(文禄4年)に誕生した結城秀康の長男「松平忠直」(まつだいらただなお)へと引き継がれ、それ以降本刀は、「越前松平家」に代々伝来しています。
本刀を制作したと鑑せられている刀工は、鎌倉時代末期に相模国(現在の神奈川県)で作刀していた「貞宗」。現代にまで残る貞宗作の刀剣は、そのすべてが無銘であり、本刀の「茎」(なかご)も「大磨上無銘」(おおすりあげむめい)になっています。「相州伝」を確立したとされる名工「正宗」の門人であった貞宗は、師の高い作刀技術を継承し、同伝の代表工としてその名を馳せました。
本刀は、その号からも分かる通り、溝のような彫り物である「二筋樋」(ふたすじひ)が、鎺下から上に施されていることが特徴。さらには、表の茎に「草」(そう)の「剣巻龍」(けんまきりゅう)と「梵字」(ぼんじ)、裏には同じく梵字と「棒樋」が刻まれており、本刀には、宗教的な意味合いや願いが込められていることが窺えます。