本太刀(たち)は、「豊臣秀吉」が所持していましたが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなった際、形見分けとして紀伊和歌山藩主「浅野幸長」(あさのよしなが)の手に渡ります。浅野幸長が拝領した大三原は、のちに浅野氏が安芸国広島藩へ入封(にゅうほう:大名が与えられた領地に入ること)となってからも、江戸時代の長い年月の間、浅野家が所有することになりました。
鎌倉時代後期の1324~1326年(正中年間)頃から南北朝時代にかけて、備後国(現在の広島県)三原で興った刀工の始祖「正家」(まさいえ)と、その子「正広」(まさひろ)などが制作した作品を「古三原」(こみはら)と呼びます。本太刀「大三原」は、正広による作で、約81cmもの長い刀身の太刀であったことから、この名が付きました。
茎(なかご)には、刀剣鑑定家の「本阿弥光徳」(ほんあみこうとく)によって「大三原 二ツ筒 浅野紀伊守拝領」(おおみはら ふたつどう あさのきいのかみはいりょう)の銘が金象嵌(きんぞうがん)で入れられ、本阿弥光徳の花押もされました。「二ツ筒」とは2つの胴を意味し、当時、刀剣の切れ味を確かめるために行なわれた罪人の死体での試し切りをするにあたり、2つの胴を重ねて行なったことを意味します。ただし、誰が試し切りを行なったかは定かではありません。