本打刀(うちがたな)は、鎌倉時代末期に作られた刀剣で、刀鍛冶は相模国(現在の神奈川県)の「正宗」(まさむね)です。 2尺2寸6分(約68cm)の刃長(はちょう)で、「朝倉教景」(あさくらのりかげ)や「織田信長」、「大津長昌」(おおつながまさ)が所持していたと伝わります。
本打刀は、越前国(現在の福井県)の朝倉家に伝わる名宝とされており、「籠手切」と付けられたのは「応仁の乱」(おうにんのらん)が由来。応仁の乱で権威を失墜しさせた室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)は京都から追われていました。足利義晴に付き従っていた「細川高国」(ほそかわたかくに)は、縁のあった越前国の「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)に助けを請います。そこで朝倉孝景はこれに応えて、息子・朝倉教景に1万の軍勢を与え、京都へと派遣。このときに朝倉教景が帯びていた打刀がこの籠手切正宗です。この戦で、相手の手首を籠手ごと斬り落とすという凄まじい斬撃を見せたことから、以後、「籠手切正宗」と呼ばれるようになりました。そして、銘に「韝切」(籠手切り)と刻んでいたとも伝わっています。
もともとは、3尺3寸の長大な太刀(たち)であったのですが、織田信長や大津長昌の手を渡るうちに2尺2寸6分(約68cm)ほどに大磨上げされました。その際、「韝切」の銘もなくなっています。また作刀した人物についても、正宗ではなく、子とも弟子とも言われる「貞宗」(さだむね)の作ではないかと考えられている謎多き刀剣です。