本短刀は鎌倉時代の山城国(京都府)の刀工・粟田口吉光作の短刀。室町時代の侍所所司代(さむらいどころしょじだい)・多賀高忠(たがたかただ)は、鶴料理の名人と称され、あるとき鶴の解体を頼まれますが、これは多賀高忠への罠だったのです。鶴の体の中には硬い鉄箸が仕込んでありました。
そのことに気づいても、多賀高忠は涼しい顔で、藤四郎の短刀で鉄箸ごと鶴を切ったことから、この短刀は、「包丁藤四郎」の名で呼ばれるように。のちに徳川将軍家に伝わりますが、1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼けてしまいます。「享保名物帳」の「焼失の部」に記載の名物。