本刀は「豊臣秀吉」の正室「北政所」(きたのまんどころ)の甥にあたる「木下勝俊」(きのしたかつとし)が所持していた1振です。木下勝俊が「小浜城」(おばまじょう:現在の福井県小浜市)の城主であったことから、「若狭正宗」の号が付けられました。
木下勝俊は、「関ヶ原の戦い」の際「徳川家康」より「伏見城」(現在の京都府京都市)の「城代」(じょうだい:主君から城郭やその周辺の守備を命じられた家臣)に任じられましたが、攻め手に弟の「小早川秀秋」(こばやかわひであき)がいたため、同城の守将であった「鳥居元忠」(とりいもとただ)に迫られ、城を退去。これにより、領地を取り上げられた木下勝俊は、徳川家康に本刀を献上したと伝えられています。そして本刀は、1612年(慶長17年)に、「姫路藩」(現在の兵庫県姫路市)の初代藩主「池田輝政」(いけだてるまさ)へ下賜され、1672年(寛文12年)に「岡山藩」(現在の岡山県岡山市)2代藩主「池田綱政」(いけだつなまさ)より、4代将軍「徳川家綱」へ献上。再び「徳川将軍家」の所有となったのです。
本刀を制作したと鑑せられる「正宗」は、「相州伝」を完成させ、後世における刀工達の作風に多大なる影響を与えた名工中の名工。本刀には、正宗の作刀において最高値となる金1,000枚の「折紙」(おりがみ:刀剣の鑑定書)が付属されており、同工の作品の中でも、特に傑作であると評される名刀です。