本短刀「九鬼正宗」は、志摩国(現在の三重県東部)の「鳥羽城」(三重県鳥羽市)城主であった「九鬼守隆」(くきもりたか)が所持した歴史を持つことから、九鬼正宗と呼ばれるようになりました。
九鬼守隆の父親は、「織田信長」に仕えた「九鬼嘉隆」(くきよしたか)です。 「関ヶ原の戦い」では「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍に父親である九鬼嘉隆が付いた一方で、子である九鬼守隆は「徳川家康」が率いた東軍に従うという数奇な運命によって、親子別れをしました。
のちに、九鬼正宗は九鬼守隆から徳川家康へと献上されることとなります。 徳川家康の死後は形見分けとして、紀伊徳川家の「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)へと継承。さらに徳川頼宣の子であり、伊予国(現在の愛媛県)西条藩主となった「松平頼純」(まつだいらよりずみ)へと受け継がれていきます。
西条藩主松平家では九鬼正宗を非常に珍重しており、松平家の重宝として大切にされてきました。 現在は岡山の実業家として名を馳せた「林原一郎」(はやしばらいちろう)氏のコレクションを集めた、岡山県岡山市の「林原美術館」に所蔵されています。
「九鬼正宗」の制作者は、相模国(現在の神奈川県)鎌倉の刀工として著名な「正宗」。鎌倉時代末期に制作された刃長8寸2分(約24.8cm)の短刀で、国宝に指定されています。