この薙刀は、元々は「豊臣秀吉」から家臣の「山口修弘」(やまぐちながひろ)が賜った物。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で西軍に付いた修弘は、東軍「前田利長」(まえだとしなが)が率いる2万の兵に、この薙刀で立ち向かったと言われています。
しかし、健闘の末、修弘は追い詰められて自害。以降、この薙刀は加賀前田家へと渡り「前田利次」(まえだとしつぐ)が富山に分家した際に、富山藩(とやまはん:現在の富山県中央部)へと伝来しました。本薙刀を作った一派である片山一文字は、備前福岡一文字派の「則房」が片山に移住したことにより誕生。地鉄(じがね)が明るく冴え鉄味が強く、刃文の乱れが逆がかり、匂口が冴えている点が特徴です。
本薙刀は、地鉄が小板目肌で杢目が交じり、刃文は焼き幅が広く丁子乱れに互の目(ぐのめ)が逆ががり、匂口も冴えて、片山一文字の特色がよく表れたできの良い逸品。また、茎(なかご)は生ぶで無銘。付属の鉄鎺(てつはばき)は制作当時のままの共鎺で、現存する物はとても稀で貴重です。
号として、薙刀術の必殺大技「大外刈」(おおそとがり)の名前が付けられている点にも注目。「大外刈」は、躊躇せず、思い切り良く刈るという秘伝の技であり、この薙刀の切味の良さが容易に想像できるのです。