本刀は、久留米藩(くるめはん:現在の福岡県久留米市)21万石を領した有馬家(ありまけ)伝来の名刀です。
「繁慶」は三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の生まれで、名は「野田善四郎清尭」(のだぜんしろうきよたか)と言います。もともとは徳川家に抱えられた鉄砲鍛冶でしたが、1616年(元和2年)、江戸に出て刀工に転じました。
繁慶の作風は、大板目の肌立った鍛えに地景(ちけい)が目立って入り、「ひじき肌」と称される独特な肌合、湾れ(のたれ)に互の目(ぐのめ)を交えた焼刃に砂流しがかかり、金筋が入って荒い沸(にえ)が付き、地刃の境が判然としない、といった特徴が挙げられます。
繁慶の理想は相州伝にあったと伝えられていますが、このような点から、鎌倉時代末期における越中国(えっちゅうのくに:現在の富山県)の「則重」(のりしげ)に範を取っていたことも窺えるのです。
本刀は、硬軟の鉄を混ぜ合わせて鍛えているため、鍛肌に異質の鉄が表れている独特の地鉄(じがね)となっています。そして、これに地沸(じにえ)が一面に付いて刃沸と地沸が分かちがたく、匂口(においぐち)が沈み、地刃の境が判然としない特色を示しているのです。
これは、「則重」のそれと同様であり、繁慶の通常の作品と比べて鍛えは荒びず、刃文も焼きが低く、小湾れ(のたれ)を主調とした穏やかな作風になっており、上品さと古作風を感じさせます。さらには、地刃の働きや沸の付く状態も素晴らしく、地刃共に健全で、繁慶作の中でも傑出した仕上がりとなった1振です。