制作者の「来国長」(らいくになが)は、「来国俊」(らいくにとし)の門人であり、のちに摂津国(せっつこく:現在の大阪府北中部と兵庫県南東部)の中島に移り住んで作刀したことから「中島来」と呼ばれています。
本刀は、身幅が広くやや浅い反りがあり、地鉄(じがね)の板目肌には木目や流れ肌が交じり、沸(にえ)の付き方は厚めです。直刃(すぐは)基調の刃文には、互の目(ぐのめ)や小互の目が交じり、足・葉(よう)が入り、金筋・砂流しがかかるなど、刃中の働きが多く、来派の特色がよく表現されています。
1724年(享保9年)に「本阿弥光勇」(ほんあみこうゆう)が記した折紙と、古鞘が付属し、「徳川実紀 元文二年五月二十八日条」に、本刀が関連すると思われる記載があると伝わります。