本刀は、筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県北西部)52万石を領していた福岡藩(ふくおかはん:現在の福岡県福岡市)の10代藩主「黒田斉清」(くろだなりきよ)が佩用した刀です。
斉清は幼名を「松次郎」(まつじろう)、初名を「長順」(ながゆき)と言いましたが、1808年(文化5年)に元服した際、11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の偏諱(へんき:将軍などが自分の名の1字を与えること)を受け「斉」の字を賜り、「斉清」へ改名。
39年の長きに亘り藩主を務め、生来学問を好んだ斉清は、蘭学(らんがく)や本草学(ほんぞうがく)に詳しく、特に本草学において同学問の研究書を多数著していた富山藩(とやまはん:現在の富山県富山市)10代藩主「前田利保」(まえだとしやす)と共に、その博識ぶりを讃えられています。また、ドイツの医師・シーボルトとも親交を持ち、さらに学問を深めました。
本刀は、鋒/切先がやや延びごころの姿で、地鉄(じがね)は小板目に杢目(もくめ)が交じってよく詰み、乱映りが立っています。
また、刃文は、匂(におい)出来で直刃調の丁子乱(ちょうじみだれ)になっており、帽子は、直ぐ(すぐ)に入ってたるみごころに浅く返る「三作帽子」(さんさくぼうし)です。この三作帽子は、真長の同系である「長光」(ながみつ)や「景光」(かげみつ)にも共通する特徴であり、本刀は、真長の代表的な作品であると言えます。